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私の見取り図_20210116現在

いろんなものがごった煮状態(もーちょっとかわいい言葉がいいなぁと思って、
3回ぐらい書いては消し・・・したけれど、見つからないので、次に行く)。

・・・私は、一体何をしているのだろう?
ここはどこ?私は誰?にも近い、途方もない投げかけ。

「私は◯◯をしている人間です」と称することにいつからか憧れていた。
職業名でも、社会的な役割でも、もはや何でもいい。

何にも囚われたくないし、人知れずひっそり存在したい。
そう思っていたし、今だって、それは変わらないのだけれど。

でも、説明しづらいことが、ある頃からちょっと辛かったかもなぁ。
気持ちに上がったということは、課題になったということで、
課題になったら、解決・・・というか、一定の解を目指すことは可能。

そうして、ようやく、一旦の着地ポイントを見つけた。
これをここに書くことも、取り敢えずの置き場所という感じで、
ほんとは、もーちょっと、良い感じにオーガナイズして出したい派!

でも、今、出そう、今!という感じで、完全に備忘録状態で、出す。

活動など

前置き(お決まりの言い訳)が長いのですが、
今思う私は、私そのものと言うより、
自分の興味の領域、それに伴う行動の集積として、
輪郭が見えてくる、焦点が絞られて像を結んでくるようなものだと
自分のことをイメージ
しています。(自分のことなのに人ごとみたい。)

その興味も、「嗅覚」とか「アンテナ」とか呼ぶ以前の
あんまり使いたくないけれど「直観」と言われるようなものでジャンプしている感覚もあって。
もはや、自分が何を感知しているのか分からないまま活動していることも多々だったりします。

2020年の印象的なシーンは
(すみません、私がタグ付けとか不慣れ過ぎで、一旦テキストベースで失礼します。
慣れてきたら、良い感じでリンクしていけるようにしたいと思います。)

[自分ごと]
・Multipotentialiteのオンラインコミュニティの立ち上げ・運営サポート
・オンラインでの定期対話会、対談Podcast、おしゃべり会の実施
(*HSPお茶会をやった、って、書きたかった!)
[継続的に参加中]
・オンラインの定期対話コミュニティーTemple
・オンラインの体験共有コミュニティーNesto
[参加・聴講]
・HSP*HSS-メッセンジャー講座*
・デンマーク文化を起点に対話や民主主義等について考える会ー手習い塾
・Change the Dream Symposium - Seven Generations
・コミュニティカフェ、コミュニティディナーへの参加
・鎌倉発信のマインドフルネス関連カンファレンス聴講
・領域横断でエッジーなグローバルのカンファレンス聴講
・オンライン寺子屋のボランティア講師
・サーキュラーエコノミーのレクチャー
・社会的共通資本関連のレクチャー
・社会的処方
・共感資本
[その他]
・働き方が変わった
(オンラインで面接、フルリモートで業務。同僚は一度も会ったことがないし、出社もしたことがない。)
・どこにも振り分けようがないのですが、仏教中心に宗教について触れたり考えたりすることが多かったと思います。
・あとは、括りが大きいのですが、祈りとか愛とか、そーいう方面について、考えている時間が多めだと思います。


Key Words


自分を形容したり、ラベルする言葉がとにかく見つからないのですが、
自分の中でフィット感があって、この方面を少し見ていきたいと思っているものたち。

領域は、
・萃点(すいてん)/ 南方熊楠
・Interbeing /ティク・ナット・ハン
・民藝 / 柳宗悦 (美とか宗教とか。河井寛次郎、W・モリス、W・ブレイク・・・)
言葉としては、
Interbeing、surrender、vulnerability、permeation / infiltration / penetration、tranquil

正義について


私は、一応、西洋美術史専攻で大学を卒業したのですが、その時、この絵を取り上げました。
聖母マリアの少女時代 / ダンテ・ガブリエル・ロセッテ

本当は、ポスターとかプリントとか雑誌とか、商業的なものの方が、興味があったはずだったのになぁ。
たまたま小さいレポートを書いた時に、すごく不思議に思うことがあって、その謎を解きたくて、この絵に。抗えなかった!

何が謎だったかというと、キリスト教では七元徳というのがあるのですが、
対神徳・・・信仰、希望、愛
枢要徳・・・知恵、勇気、節制、正義
この絵の中には、「正義」が描かれていないのです。どうして「正義」が外されたのか、ということが謎でした。

紆余曲折あって、当時出した結論は、ここでは割愛します。
今この瞬間、自分的には、また新たな解釈が思い浮かびました。
でも、何にせよ、折に触れて「正義」が他の徳目とどう違うのか?ということを考えていました。足掛け15年!

人生を送っていく中で、一人一人、自分の正義を生きているんだなぁと、腑に落ちた瞬間がありました。
「これが正義」って、なくって、一人一人、自分の正義を体現している。

私が仕事をしていて、会社で困ったことがあった時、3人の人がそれぞれ力になってくれたのですが、
助ける方向性が完全に三者三様で(そして私の思っていた助けてほしい方向性とも、全部違う!)
ものすごーーーくびっくりしたのでした。その時に分かったことです。

それ以来、「正義」は一人一人違うのだけれど、表れ方の異なる「正義」はどこからくるのだろうか?ということに考える焦点が若干ずれました。

ある日、突然、思いがけない形で、あっけなく答えが与えられました。
[正義=知恵*勇気*節制] だって。
なるほど!正義は正義として在るのではなく、知恵*節制*勇気のコンビネーションで、形を成すもの。

1年取り組む中で、どーしてこれにしちゃったのかなぁと、正直何度も思いました。
地味だし。もっと絵そのものが好みのとか、違うのをたくさん見るようなテーマとか、気分が紛れるのにすればよかったのに!
でも、その時は答えがビミョーだったけど、宗教・哲学・美術。時代を生きる一人の人に思いを馳せること。絵を作家のものとして読むこと。
長期に渡って、学ぶとか考えるとか、探求するということを、私に投げかけ続けてくれた絵だなぁと感謝しています。

「この先が、不確実である、ということだけが、確実」と言われる世界に、望むと望まざると、
いっせーのせ、でみんなでDive!した訳ですが(いや、いっせーのせに見えるだけ・かも、だけど!)、

これが正しい!これが間違っている!ということはなくて。(雑だけど。)
どんな時も、それがどんな形であっても、
一人一人が、自分の「正義」を表現しているのだと、私は思うことにしています。

最近思うことは、何となく「節制」けっこう、地味に大事なのではないか、ということで。
「節制」って聞くと、あんまりピンと来ないかもだけれど、「謙虚さ」みたいに捉えています。

何に対して謙虚なのか・・・ということがポイントで、個人的には「畏怖」の心みたいなもの。
いきなり、ですが、例えば気候変動を考える時に、誰がステークホルダーなのかを考えること。
想像力を最大限に使って範囲を広げたら、見える世界が違ってくるかもしれない。

あとは、「正義」が「人」を通じて表現される以上、もれなくついてくるのが「恐れ」と「拗ね」問題
去年、冒険家(と私が心で呼んでいる地質とか地球とかの専門家)の先生が、
「事実を知ってもらうとか、行動を変えていくとか、啓蒙的な部分ももちろん大事なのだけれど、
人の心にどうアプローチするかも、両輪で大事と考えている」とお話しされていた。

自分の抱えている恐れも拗ねも、もはや、自分の理解の範囲だけの恐れと拗ねかも分からず。
もっと言ったら、私の恐れはあなたの恐れで、あなたの拗ねは私の拗ねかもしれない。
全部を抱えて、今をみんなで旅しているのだなぁという、一蓮托生を感じて日々生きています。

縁起。

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