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1997 行く春

夜桜見物 於 水之江高校三年C組教室
日時 四月一日 二十時
集合場所 校門 バス停前

 紀田真生は手紙の文面を睨みつけると、便せんをグレーのコートのポケットに入れた。
 あと一時間で、約束の八時になる。真生は自分の部屋を出ていこうとして、ふと何かに惹かれたようにふりかえった。
 部屋の長押に吊ってあるグレーのブレザーの制服に目を向ける。制服の胸を飾るピンク色のリボンを見て、これから会いにいく友人のことを思いだす。
 三月に卒業式を迎えて以来、どんなに電話しても一度も連絡をよこさなかった友人。岩波里枝子。
 里枝子はこの春から東京の私立の美術大学へ通うことになっている。地元の大学に早々に受かった真生からみれば、羨ましい東京組のひとりだが、里枝子は合格通知をうけとってから、どことなく沈んでいるような感じがあった。
 里枝子の言葉がなければ、制服のリボンはここにはなかったはずだ。真生は歪む口元を手で覆った。桜の花びらに似た、淡いピンク色のリボンを、真生は三人の下級生にねだられた。女子校である水之江高校では、憧れの先輩のリボンを貰うのが卒業式の風物詩になっている。
 真生は部屋を出ると、薄暗い階段を降りていった。足取りが重い。二日前に届いた手紙は、一方的に用件だけを真生につきつける。
 この手紙がエープリル・フールであればいいと思った。が、里枝子は約束を忘れる人間でも破る人間でもない。会うのが怖いのに、里枝子からの誘いを断れない、そんな自分が嫌になる。
 真生は母親に出かける旨を告げると、すでに残照の気配の消えた外へ出ていった。

 卒業式の一日前。真生は、ホームルームが終わってからいなくなった里枝子を探しに、美術準備室を訪れた。
 大学に受かってから、里枝子のようすは微妙におかしかった。倍率の高い美大の難関を突破したというのに、受かったあとのほうが神経が高ぶっているようだった。
 美術準備室のドアをあけると、油絵の具の匂いが鼻についた。衝立のように視界を阻むキャンバスやイーゼルの森のなかに、グレーの制服の背中が見える。
 長い髪が躍って、岩波里枝子がふりかえった。浅黒い肌に、炯々とした黒い瞳。里枝子には八月の木々の緑のようなイメージがあった。朽ちて葉を落とす寸前の、狂ったように茂る八月の緑。里枝子は真生の姿をみとめると、安らいだように目をほそめた。
「どうやって持って帰ろうかな、これ」
 真生はイーゼルに立てかけられた一枚の絵のまえに立った。里枝子が描いたアクリル画で、カラーの花束を抱く横顔の少女は、真生だった。
 絵の基調は灰色がかった淡い虹色で、紗のようなうすい膜が、螺旋をえがいて画面全体を覆っていた。浮き出たアンモナイトの化石のようにも見える。里枝子はいつも多重露光の写真のような絵を描いていた。元の絵を透かすようにもう一度色をのせる、細緻な描き方だった。
「親に車出してもらったほうがいいかな……」
 里枝子は口元を覆って呟いた。真生がうなずくと、里枝子はとくに持って帰りたくもないんだけど、とそっけない返事をかえした。
「昔の絵なんて見るのも嫌。下手すぎる」
「私はそうは思えないけど」
「描き上げたときはやった!と思うんだけど、あとで見たら全然だめ。満足する絵なんて一度も描いたことがない」
 里枝子がこの絵は、と横顔の少女を指さした。
「ローランサンの絵みたいでちょっと嫌だな」
 真生はローランサンという画家の絵を知らない。が、真生をモデルにしたこの絵は、自分がすこし幼すぎると思っていた。甘ったるい顔立ちをひきしめるために髪型をワンレングスに変えたのに、絵のなかではミルク色の額がさらに子供っぽさを際だたせている。
「『追われた女よりももっと哀れなのは死んだ女です』」
 里枝子が視線をさまよわせる。
「『死んだ女よりももっと哀れなのは――』」
「何?」
「ローランサンの詩」
 里枝子はしばらくこめかみを押さえて考えこんでいたが、先の詩句は出てこなかった。
「そういえば、真生は誰にリボンをやるの?」
 里枝子は急に話題を変えた。
「そんなこと、決められないよ。欲しいっていわれたらあげようと思うけど」
「希望者が何人もいたらどうする?」
 真生がそういう場面を苦手に思っているのを知りながら、里枝子は追い打ちをかけてくる。
「いっそのこと購買部で予備を買っておいたら?みんなに行き渡るように」
「相手に悪いよそんなの」
 不機嫌になる真生に、里枝子は黙って腕を組んだ。指がリズムを刻んでいる。機嫌が悪いときの里枝子の癖だ。
「誰でもいいんでしょ?それこそ、相手に失礼だよ」
 里枝子の指が、空を強くはじいて止まる。
「いっそのことそのリボン」
 投げ出すような口調で。
「私にちょうだい」

 真生は家を出ると、県道を出て市街へむかうバスに乗った。春物のコートを着て来たのに、夜気が冷たく感じられた。
 あの言葉の意味を、真生は考え続けていた。里枝子が自分のことを好きだったなんて、考えたこともなかった。真生が絵のモデルを依頼されたときも、下級生に告白された話をしたときも、里枝子は淡々とした態度を崩さなかった。好意の片鱗すら窺えなかった。
 真生は高校二年の途中から演劇部にはいった。友人で演劇部部長の河野妙が、人手不足を理由にむりやり真生を入部させたのだ。そうしていきなり『人形の家』のノラを演じることになり、一ヶ月間特訓させられた。その劇が市の演劇コンクールに入賞して、真生は学校の後輩や他校の男子生徒から告白されるような身分になってしまったのだ。
 ステージに立つのは楽しかった。目立つのが嫌いだと思っていた自分に、激しい一面があることをはじめて知った。背筋や指先がはりつめて、何かに取り憑かれたように動き出す感覚。自分が真空のように観客の意識をひきつけているのを知る、高揚感。
 里枝子の絵をはじめて見たのも、同じころだった。あまり話したこともなく、物静かな優等生だと思っていた里枝子の絵は、本人の印象からは遠くかけ離れていた。
 二号舎の渡り廊下に飾られた工場の廃墟の絵は、市の絵画展の銀賞を受賞していた。錆色の鉄骨や、剥き出しの旋盤のうえを、木々の緑が覆い被さるように空へ伸びている。炎の舌のような木々の枝が嵐の予兆を暗示しているようで、その絵の孕む不穏さが真生の目を捉えて離さなかった。
 怖い絵だね、と里枝子に言ってから、失言だと思った。里枝子は一瞬目の焦点を遠くして、困ったような笑みをうかべてから、
「心理状態って出るんだね。すごく激しい絵になっちゃって」
 と言った。里枝子は両親から美大を受験することを反対されていた。この絵は両親を納得させるために強引に描いたものだという。
「絵なんか描いて何になるんだって、親が言うのね。すごくショックだった。子供のころに絵の塾に通わせたのは自分たちだったくせに」
 高校受験の邪魔になるからという理由で塾をやめさせられたのが、納得できなかったのだと里枝子はつづけた。拳を口元へ寄せる里枝子を見て、真生は里枝子が意外と感情的な人間だということに気づいた。
 真生は大きく息をついた。学校が近づいてくるにつれて、自分が落ち着かなくなってくるのがわかる。里枝子は自分のことが好きなのだろうか――あまり考えたくない疑問だった。里枝子に本気で好きといわれたら、気持ち悪いと思ってしまうだろう。自分の気持ちが愛情に変わるとは、到底思えない。
 降車するバス停のアナウンスが入る。真生は気を取り直したように首を振ると、座席から立ち上がった。

 こんな時間に学校へ来るのは始めてだった。
 水之江高校は旧女学校跡地に建てられた県立の女子校だった。伝統に比例して学校の建物や講堂も古く、鬱蒼とした桜並木が敷地内を縦横に走っている。
 真生はバスを降りると、校門の前に立つ人影を見つけた。校門まで歩いていくと、紺のダッフルコートを着た里枝子が真生にむかってひらりと手を上げた。
「久しぶり」
 一ヶ月のブランクを感じさせない、あっさりした態度だった。里枝子は毅然としていて、一ヶ月間真生からの連絡を無視しつづけたことなど、すっかり忘れているようだった。
 二人は校門を乗り越えて校内へ入った。学校の周囲をかこむように植えられた桜は、薄い霞のような光を孕んで夜空にそびえていた。花びらを零す寸前の桜は、ひどく生々しい感じがする。枝を揺さぶって花を散らしてしまいたくなる。
 里枝子からクランベリージュースの瓶を手渡された。まっすぐに自分を見つめる瞳から目をそらす。里枝子はあのことを全然気にしていないようだった。思いつめてるように見えたのは自分の考えすぎだったのだろうか。悩んでいた自分が馬鹿みたいだと思う。
 しばらく大学の予定などを話しているあいだに、ジュースの瓶が空になった。
「校舎に入ろうか?」
 コートのポケットから鍵を取り出す里枝子に、真生は呆れたように目をみひらいた。
「いつのまに校舎の鍵なんて作ったの?」
 里枝子の奇妙な性癖を知っている人間は真生だけだった。里枝子は含みのある笑みを浮かべて、昇降口へ歩いていく。
「私、行かないよ」
 里枝子は足を止めると、人形のようにぎこちなく首を傾けた。
「今年でこの校舎終わりなんだって」
「え?」
 真生は顔を強張らせて校舎を見上げた。三十年以上の歴史のある、かなり老朽化した建物だが、校舎を建て直す話は初耳だった。
「一号舎だけじゃなくて、学校全体を建て直すんだって。二号舎のイチョウも桜の並木も全部伐り倒すっていう話」
「ほんと?」
 里枝子がうなずく。
「今日だけ特別に許してくれる?」
 物をねだる子供のような真摯な目。駄目だと言いかけて、真生はふいに言葉を失った。
 劇の練習をした古い講堂や、里枝子と一緒に弁当を食べた藤棚のベンチ、静かな教室に涼しげな葉ずれの音を響かせるイチョウの並木――三年間の記憶が、すべて壊されてしまう。
 胸を塞がれて、真生は何も言えなかった。迷うように視線を泳がせてから、真生は里枝子のほうへ歩き出した。里枝子はかすかに笑みを浮かべた。
 昇降口のガラスの扉に鍵を差す。そっと扉を開いて、二人は暗い校舎のなかに入った。
 鍵を閉める音に、真生の心臓がビクンと跳ねた。
 昇降口から廊下へ出ると、職員室の前にある熱帯魚の水槽が緑色の光を発していた。その光をたよりに、階段の下へ出る。
「怖い?」
 里枝子の声には、笑みの気配があった。
「怖くない」
 暗い階段を昇っていった。踊り場の窓にはりついた藍色の空。切った爪のように細い月。真生は怯えを気取られぬように明るく里枝子に声をかけた。
「本当に、鍵を使ったのはじめて?」
「そうだよ。自分で決めたルールだから」
 里枝子の家に遊びにいったときに、深い藍色のガラスの瓶に詰まった鍵を見せられたことがある。小学校のプールの鍵、錆びた自転車の鍵、金メッキのおもちゃの鍵。なかには用途不明の鍵もあって、その鍵がどんな扉に続くのか想像するのが面白いと里枝子は言う。
 クラスの友人と、誕生日のプレゼントに何が欲しいかという話をしたことがあった。里枝子はそのときベンツの鍵とこたえて皆に欲張りだと笑われた。里枝子は鍵だけを欲しがっていたのに――ひとりだけ笑わない真生を、里枝子は鏡を見るような目で見ていた。
「犯罪者にはなりたくないからね」
「今まさに犯罪者じゃない」
「共犯者がなに言ってるの」
 声が廊下に反響する。里枝子がビクリと肩をすくませた。
「大きな声出すとヤバいな」
 真生はようやく里枝子も怯えているのだということに気づいた。そのことに気づいたら、かえって落ち着いてきたのが不思議だった。
 三階へ上がると、二人は3-Cの引き戸を開けた。整然と並ぶ机のあいだを通って、窓際へ出る。桜の花が街灯に照らされてぼんやりと光っていた。制服のリボンよりも淡い、あかるい色だった。
 もう二度とここでこの桜を見ることもない。ふりかえると、里枝子は魅入られるように桜を見ていた。リボンの話を持ち出す決心が鈍る。
 このまま何もなかったことにしようか――真生は手のひらに目を落とした。でもどこかに棘のように里枝子の言葉は残るだろう。満開の桜を見ているときに、その薄い紅の色に。
「あの――」
「演劇、続けないの?」
 問いを遮られて、一瞬真生は鼻白んだ。
「わからない。妙ちゃんみたいに演劇に詳しいわけじゃないし」
「ノラ役の真生はすごかったよ。才能あるんだから、続ければいいのに」
「あのときは、何もわからなくて、自分に酔ってた。怖い物知らずだったから」
「そんなことないよ。市のコンクールのとき、真生たちの後の学校の演劇部がかわいそうだったもの。すっかり呑まれちゃってたよ」
 真生は頬が赤くなるのを感じた。自分が河野妙や里枝子のように努力を重ねているわけではないから、手放しで褒められると居心地が悪かった。羨ましいのは里枝子のほうだった。自分の描く絵が認められて、続けられて――自分には、たやすく予想がつく未来しかないというのに。
 かすかに頭を振って、考えを打ち消した。家庭の事情で、家から離れることのできない真生にとって、里枝子の存在は劣等感を刺激する棘のようなものだった。自分ではどうしようもないことだった。里枝子を嫉妬する自分が、醜いと思った。
「桜の一番いい肥料は、何だか知ってる?」
 里枝子はぼんやりと桜を瞳に映していた。
「知らない」
「人間の灰」
 里枝子が振り向く。淡く、すさんだ瞳の色。
「だから、桜の樹の下に死体が埋まってるっていうのは、あながち嘘じゃないのかもね」
 里枝子はほっとしたような表情で手のひらにのせた鍵に目をおとすと、
「そろそろ帰ろうか」
 と言った。
「つきあわせて、ごめんね」
 首をかたむけて目元を和らげる里枝子に、真生はあいまいにうなずいた。

 里枝子のあとについて教室を出ていった。無言で光のない廊下を歩く。
 真生は、自分にリボンをねだった下級生のことを思い出していた。
 彼女たちが騒ぎ立てるのを嬉しいと思う反面、複雑な思いで眺めていた。彼女たちは身近に憧れる対象を求めている。けっして真生の内面に興味をもっているわけではない。だから真生もリボンをあげる気になれた。さして深刻な思いではないから、容易に応えることができた。
「中庭のイチョウに、ヒバリの巣があったよね」
 廊下の窓からのぞく樹影に、里枝子は目をむけた。
「毎年巣を架けてたけど、来年からはもう、なくなるかな」
 ヒバリ。壊される校舎とともに消えるヒバリの巣。真生はふいに怒りを覚えた。里枝子は故意に核心へ触れるのを避けている。
「どうして電話、くれなかったの?」
 微妙に離れた位置で、里枝子がふりかえった。
「どうして今さら呼び出したりしたの?ほかにも言いたいことがあるんじゃないの?」
 里枝子は凍りついたように動かなかった。
「卒業式の前日に言われたって、どうしたらいいのかわかんないよ!」
 叫び声が廊下に反響する。怒りが去ると、自分がひどく見当違いなことを言っているような気分になった。
「リボンのこと、本気で言ってたの?」
 里枝子はうつむいて、しばらく何も言わなかった。真生は焦る思いを抑えつけながら里枝子の答えを待った。
「最後まで言うつもりなかったんだけどね、本当は」
 押し殺した声で呟くと、里枝子は首をかたむけた。
「聞かなかったことにして、って言ったら、虫がいいかな」
「良すぎる」
 里枝子が穏やかになればなるほど、真生の苛立ちはつのっていく。
「春休みのあいだ、何度も電話したのに。冗談ならこんなに連絡が取れないはずはないって思ってたのに」
 宙吊りの問いは、抜けない棘のように真生の脳裏に残っていた。
「何を考えてたの、私にどうしてほしかった?本当にリボンが欲しかったの?」
 里枝子の肩がかすかに震えた。
 真生は静かに溜息をついた。一ヶ月間繰り返した問いの、それが答えだった。里枝子からむりやり引きずり出した――
「最後まで隠しておけると思ってた。今までずっと、そうしてきたから」
 里枝子は声を低めて言った。
「でも、あのときだけは――腹が立って。真生はどうしてわかってくれないんだろうって、思って。馬鹿だよね、隠してきたのは自分のほうなのに」
 悲しげな声がかすれて消える。下級生とは意味合いの違う告白が、真生に重くまとわりつく。嫌悪感とともに、罪悪感を感じた。これだけ近くにいたのに、里枝子の思いに気づくことはなかった。里枝子のことなど見ていなかった。
「ごめんね」
 里枝子は罪人のようにうなだれていた。
「軽蔑されたと思ってた。このまま連絡しなければ忘れられると思ったのに、そうするのが自分でも嫌だったの。矛盾してる」
 真生はようやく里枝子も戸惑っていたのだということに気づいた。一ヶ月間、自分と同じように、あるいは自分よりも深く、里枝子は考えつづけていたのだ。
 真生は里枝子の肩に手を置こうとした。が、意外な強さでその手を払われる。
「触らないで」
 悲痛な声だった。
「お願いだから、触らないで」
「怖いの?」
 真生が詰め寄る。里枝子が壁際へ後ずさる。
「私が怖いの?」
 里枝子ははじめから逃げようとしている。自分でも整理できない思いを真生に押しつけて。
「自分からは何も聞こうとしなかったくせに、逃げないでよ。あなたは私のことが好きなの?」
 怯えるように、里枝子の肩が揺れる。
「それとも自分が傷つくのが怖いの?」
 真生は挑みかかるように里枝子に顔を近づけた。
 里枝子はうつむいて、顔を手のひらに埋めた。里枝子の背後で、イチョウの枝の影が波立つように揺れる。
 重い沈黙のなかで、窓枠のきしむ音が暗い廊下に響いた。苦しくなって、真生は喘ぐように大きく息を吸った。
「――好きだった。ずっと」
 喉を捻られたような、かすれた声だった。
「ずっと一緒にいたかった。受験、落ちたらいいなって思ってた。そうしたらここにいられるのに」
 空気が粘り着くように重い。言葉が、重い。
「おかしいよね、あんなに頑張ったのに、親を見返すためにすごく頑張ったのに。なに馬鹿なこと言ってるんだろう、馬鹿みたい――」
 手で覆った口元から、しゃくりあげるような息が洩れた。里枝子が泣くなんて想像もつかなかった。
「ごめんね」
 里枝子が肩をふるわせて呟いた。何度も。崩れるように壁際に座り込む。真生は胸苦しくなってコートの襟元をつかんだ。
 女子校に三年もいたから、疑似恋愛に陥っているだけだと、真生は思っていた。自分を慕ってくれた下級生のように、学校を出たら自分のことなどきっと忘れてしまうだろう。絶望したように告げられた言葉を聞いて、真生は胸を殴りつけられたように苦しくなった。里枝子の思いが、水が浸透するように伝わってくる。
 どうして里枝子は自分を好きになったのだろう。ここまで思いつめるほどに。
 里枝子から向けられた思いが重すぎて、怖くなった。同時に、何もわからなかった、正しくて残酷な自分に、腹が立った。
 里枝子に告げたかった親友という言葉すら、おそらくは無意味だった。真生は里枝子に覆いかぶさるように座り込んだ。里枝子の髪を指に絡め取るようにして、頭を抱く。
 里枝子が硬い動作で顔を上げた。その顔に唇を近づける。喉がつかえているように苦しくて、こうすれば、呼吸がすこし楽になるような気がした。
「死んだ女よりも」
 互いの吐息が感じられるほど近くなったときに、里枝子が囁いた。
「もっと哀れな女は?」
 真生は動きを止めた。里枝子の真意を計りかねて、戸惑う。
 里枝子は邪険に真生の腕を払うと、真生を押しのけて立ちあがった。
「触らないで」
「里枝子」
「私に同情しないで!」
 喉元に刃を突きつけるようなきつい調子だった。真生は叱られた子供のように身体をすくませた。ダッフルコートの襟元に唇を忍びこませようとする自分の姿を想像して、ぞっとする。いったい何をしようとしていたのだろう――身体から力が抜ける。座り込む。
 里枝子を哀れんで、キスをしようとしていたのか。真生を頭を押さえた。取り憑かれたように、魅入られるように真生は唇を近づけた。まるでそこにしか空気が存在していないように。
 見えない表情をさぐるように、真生は里枝子を見上げた。
「ごめんね」
 廊下に座り込んだ真生に手を貸すと、里枝子はさきほどの激しさからは想像もつかないような穏やかさで言った。
「今日はこれから雨が降るから、早く帰ったほうがいいよ。傘、持ってないでしょう」
「雨――?」
 天気予報ではそんなことは何も言っていなかった。問い返すと、里枝子は雨の匂いがする、と言った。
「空気がひんやりして、濡れたような感じがする。私は鍵をかけて帰るから、先に行ってくれる?」
 真生は里枝子と一緒に帰りたかったが、言葉には有無を言わさぬ響きがあった。結局、里枝子に何の返事も返さないまま、真生は里枝子に別れを告げた。

 

 昇降口から外へ出ると、雨が道路を叩き始めていた。
 真生は雨のなかを歩いていった。校門を越えてバス停へ向かう。冷たい雨は、幾重にも滴を重ねて強くなっていった。
 心が麻痺したように、何も考えられなかった。真生はバス停の濡れたベンチのまえに立って、いまだにコートの胸元を押さえていた。
 地面に白い星が落ちた。見上げると、桜の花びらが宙を舞っていた。少しずつ増える、地上の星。真生は胸のつかえが溶け出すのを感じていた。
 涙が出そうだと思ったときには、すでに子供のように泣きじゃくっていた。里枝子に謝りたかった。親友、暗号のような詩の文句、キスの意味。里枝子の思いも、自分の思いすらも、もつれて、ぐしゃぐしゃになって、自分が何を言いたかったのか、何をしたかったのかも、わからない。
 雨に打たれながら、なすすべを知らぬ子供のように、真生は泣いた。

 

 市の図書館で、ローランサンの画集を見つけた。大判の、重い画集を手に、窓際のソファへ腰を下ろす。
 南側へ大きく切り取られた窓から、公園の桜が若葉の生え揃った枝を伸ばしてそびえているのが見える。その年の桜は、連日降り続いた雨を吸って地面に叩きつけるように花を落とした。
 画集をひらくと、グレーと淡いピンクが基調の、ものうげな少女の像が目に入った。午睡の夢のような、ソフトフォーカスの世界が、ページを繰るごとに眼前に広がる。
 詩人の肖像画のとなりに、鎮静剤という題名の詩が載っていた。
 言葉遊びのように、ひそやかな暗号のように、くりかえす言葉の波をたどる。
 その詩の最後に、里枝子の問いの答えを見つけた。

 追われた女よりも
 もっと哀れなのは
 死んだ女です

 死んだ女よりも
 もっと哀れなのは
 忘れられた女です

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