2018 永遠の前日

 仁山(にやま)が親友の訃報を聞いたとき、仁山の頭のなかで鳥の群れが舞い上がった。
 高梨(たかなし)の葬式は自宅で行われた。高校時代の野球部の同級生といっしょに、仁山は高梨の自宅を訪れた。
 享年七十四歳。棺に納まった高梨は痩せ衰えていた。高梨の残骸が横たわっている。そう感じた。
 高梨は仁山にだけは病気で衰えた姿を見せたくないと細君へ言っていた。だから自分は、力を失った高梨の目を見なくてすんだ。
 精進落としの席で、仁山は高梨の細君に呼び出された。細君は仁山を高梨の書斎へ案内すると、仁山へ一冊の黒い手帳を手渡した。
「主人の手帳です。あなたが持っていてください」
 仁山が怪訝そうな顔をする。細君は頬にかかる白髪を手で払うと、痛みをこらえるような顔で微笑した。
「あの人は仁山さんに淡い憧れのようなものを持っていらしたから」
 仁山は細君を五十年以上前から知っていた。野球部の試合を一生懸命応援してくれた下級生。高梨は高校生のときから付き合っていた彼女とそのまま結婚した。高梨は細君一筋の人生だったというのに、彼女は仁山と高梨の仲を羨むようなことを言う。
「あの人はあなたを見ていると歯がゆくてしょうがなかったようですよ」
 鳥の羽音を聞いた気がした。
 耳の迷路の奥で、鳥たちがいっせいに空へ羽ばたいていた。

 高梨の手帳を手に、仁山は家へ帰った。誰もいない暗い家の灯りを点けて、仁山は居間のソファーへ座ると高梨の手帳を開いた。
 手帳は今年のものだった。一日ごとに短い予定が、高梨の四角い文字で書かれている。
 仁山は一月のページを繰って金曜日の項目を確かめた。

わたや 19時

 月の第三金曜日に居酒屋で酒を飲む約束をしていた。高梨は自分の名前を書いてはいなかった。
 仁山は二月のページをめくった。やはり金曜日に同じ言葉でメモが記されている。
 仁山は自分の知らない高梨の痕跡を手帳で追った。細君の誕生日、次男の子供の野球の試合。高梨は、結婚して三年で妻を失った自分とは正反対の人生を送ってきた。幸せな人生だったのだろう。

「あいつはどうして自分の幸せに貪欲になれないんだろうなあ」
 高梨の家で酒を飲んでいたときのことだった。トイレから戻ってきた仁山は、居間の襖から漏れる高梨の声にふと足を止めた。
「配偶者を病気で亡くした方のなかには、再婚したくないと考える人もいらっしゃるのよ。いつまでも奥さんが忘れられないのね」
「そんなのは不健全だ。仁山の奧さんだってきっと、仁山の次の幸せを願ってる」
「あなたが仁山さんの幸せを決められるわけじゃないでしょう」
 自分の足音で会話は途切れた。
 仁山は二十六歳のとき、高梨が紹介した女性と結婚した。妻は仁山と結婚して三年後に白血病で亡くなった。
 妻が亡くなってのち、高梨はすぐに再婚しろと仁山へ言ったが、仁山は再婚しなかった。自分は高梨とは違う。このままでいいと思った。

「自分の女房も子供も掴むのが男の人生というものだろう。俺にはあんな生き方は理解できないね」
 高梨と映画館で古い映画を観た。
 映画の主人公は戦争から逃れた地でかつての恋人と再会する。が、恋人にはすでに夫がいて、自分はその夫のために身を引く。そのような内容の映画だった。
「なんで笑う」
「高梨らしいよ」
 仁山は笑いながら、高梨は理解しなくていい、と思った。
 自分の幸せが相手の幸せと重ならない、そんな人生を選ぶ者もいるのだ。

 心の奥でひっそりと、違う誰かを夢見ている。
 亡くなった妻を忘れられない夫を演じながら、胸のなかで異なる人を飼っている。
 愛という言葉は生臭くて似合わない。友情とも違う。名前のつけられない執着が仁山の胸の内にあることを、高梨は一生知らずに死んでいった。
 自分で縺れさせた一本の糸を切り離すのは自分だけでいい。手帳の四角い字を指で辿りながら目を閉じる。

 自分を失いそうになると、キョクアジサシを思い出す。風切り羽を反らして空へ舞い上がり、北極から南極へめぐる鳥のことを。
「あいつはいつも冷静なんだ。俺はあいつが自分を失うところを見たことがない」
 高校時代、投手だった仁山は高梨とバッテリーを組んでいた。尊敬の念を込めた高梨の目。仁山は常に、高梨の思いに見合う自分でありたかった。
 高梨は、酒の席でいつも仁山が地区予選の決勝のときにノーヒットノーランで完封したことを自慢する。しかしマウンドへ上がった自分は、高梨のミットへ繋がる一本の糸をひたすらボールで辿っていただけなのだ。

 一年で北極圏から南極圏へ渡るキョクアジサシは、地球を一周する糸に導かれて旅に出る。地上には無数の見えない糸が張り巡らされていて、糸は結びつけられたり、縺れたり、些細なことで切り離されたりする。
 あのときは、試合という意識も、地区予選の決勝という現実も消え、仁山はただ一心にボールを投げ続けていた。高梨のミットへ繋がる一筋の放物線。キョクアジサシが描く同じ軌跡を、自分の指先が覚えている。
 このままでいたい。
 このままずっと、高梨とボールを投げていたい。
 歓声が消え、刺すような日差しが消え、バッターも審判の姿も消えた。仁山は高梨のサインに頷きながら、高梨と自分を繋ぐ一本の糸に神経を集中させていた。

 自分の指先で縺れた糸が文字を描いている。
 仁山は五月のページを目で追っていた。病院の名前の記載が多くなる。高梨はこのころから仁山と会わなくなった。
 七月のメモに目が留まる。

わたや 19時

 仁山は首をかしげた。七月にはすでに高梨は入院していて、仁山とは会っていない。膵臓癌だと仁山が高梨の細君から知らされたのも、七月だった。
 仁山は八月のページをめくった。メモの記述が減ったページに、高梨の痕跡を探す。
 八月の第三金曜日にも、同じ記載があった。九月、十月。高梨の四角い文字で、果たされなかった約束が書かれている。
 仁山は十一月の第三金曜日のページをめくった。

わたや 19時

 メモは高梨の死の前日で途絶えていた。
 高梨の死の前日はどんな日だったのだろう。おそらくは普段通りの一日だった。高梨の死の予兆はなく、妻の死を知ったときのような落胆もなかった。来るべきものが来たと、それだけ思った。

 高校の同級生が仁山に再婚を勧めたときの言葉を思い出す。
「高梨も言ってたよ。あいつはいい奴だ。いい奴はたくさん幸せにならなければいけないんだ、ってね」
 自分は高梨の言葉に値する人間ではなかった。
 いや、心のなかで高梨をひっそりと飼うことが、自分の一番の幸せだった。

 高梨も自分に何らかの思いを抱いていたのだろうか。抱いてくれていたのだろう。永遠に来ない約束のメモを残して、高梨は逝った。心の奥で縺れた糸が高梨へ繋がっていた。
 北極から南極へ渡るキョクアジサシを思い出す。地球を幾重にもめぐる糸に思いを馳せて、自分はいつも心を落ち着かせてきた。高梨を失っても生きていける。高梨が残してくれた思いの糸を辿って、自分は生きていける。
 仁山はメモの上に雫を落とした。文字が滲んで、インクが小さな円を描いた。

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