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72/100 夏休みの国の子供3

文字書きさんに100のお題 062:オレンジ色の猫

夏休みの国の子供 3

 男といっしょに秦野神社のお祭りへ行った。
 護福寺のとなりにある秦野神社の参道には、にぎやかな屋台が並んでいた。夜の黒々とした杉林に縁取られて、屋台の屋根がいっそうカラフルに見える。
 屋台を冷やかす人々の姿が、灯に明るく照らし出されている。
「俺はわたあめが嫌いなんだ」
 兄がわたあめの屋台に飛びついたのを見て、男は生気のない顔を歪めてみせた。
「子供のころにわたあめを持って転んだことがあるんだよ。わたあめに顔を突っ込んで土と飴でベタベタになった。それがトラウマなんだよ」
 兄がふわふわしたわたあめに口を埋めると、雲をちぎるように食べ始めた。
「わたあめは面白いです。別の生き物みたいで」
「顔を突っ込んでみろよ。俺の気持ちがわかるから」
「もったいないから、しません」
 ぼくは兄が人に逆らうなんて珍しいと思った。男はそんな兄を気にしたふうでもなく、射的を覗いたり、舌が染まりそうなかき氷のシロップを見比べたりしている。
 神社から山車が出てきた。鉦の高い音と太鼓の音が、山車とともにやってくる。
「しゃぎりが始まった」
 山車の上で法被姿の子供たちがお囃子を奏でている。摺鉦と太鼓がリズムを刻み、しの笛が陽気な節回しの曲を吹く。
 小さく兄が、あ、と言った。山車を見上げると、山車の上でしの笛を吹いているひとりの少年と目が合った。
 兄の親友だ。
 山車は人々に曳かれながら神社から参道へ出ていった。山車の屋根に飾られた白い提灯の群れが光を放ちながらゆらゆら揺れる。
 ぼくらはゆっくり参道を行く山車のあとをついていった。摺鉦と太鼓の音が速くなり、笛の音が黒い杉林に反響する。
 兄は親友を避けるように頭を下げてわたあめを食べた。
 しゃぎりは濃い灰色の雲がたちこめる夜空に朗朗と響いた。お囃子のかけ声と摺鉦の音が、人々の体温を上げていく。
 山車は港を一周して、ふたたび神社へ向かっていった。ぼくらはお囃子に魅入られたネズミのように、山車のあとをついていった。
 山車が神社へ戻ってきた。しゃぎりは神社の境内でまだ続いている。
「この音がすると、実家へ帰ってきたって思うなあ」
 子供のころから聞いている、夏の音だ。兄とぼくは男の言葉にうなずいた。
 誰かが兄の名前を呼んだ。紺の法被に紺のはちまきを締めた兄の親友が立っていた。サッカーで黒く焼けた肌と、きつい眼差し。親友は端正な顔にかすかな笑みを造った。
「お前が弟以外の相手といるなんて、珍しいな」
 別の高校へ行ってから、兄は親友と一度も顔を合わせていない。兄の身体が固まった。
「まだ俺と口が利けないのか」
 兄は釣り目をさらに釣り上げて、親友の顔を見上げている。
「まだ幻覚が見えるのか?」
 ぼくがあいだに入ろうとすると、親友がぼくの身体を乱暴に突き飛ばした。
「こいつと話がしたいんだ。お前は邪魔するな」
 体勢を崩されて、ぼくは兄の親友を睨みつける。
「俺はお前に合わせて幻覚が見える振りをした。あのときはお前が想像の話をしていると思っていたから」
 兄がキュッと小さい口を引き結ぶ。兄は親友の言葉に傷ついている。
「だから、俺も責任を感じているんだ。まだ幻覚が見えるなら、お前は病院へ行ったほうがいい」
 夜目にもわかる顔色の悪さで、兄がこの場を去っていく。兄のあとを男が追う。
「お前があいつに調子を合わせるから、あいつはこれだけ悪くなったんだ。二人組精神病って知ってるか? あいつの妄想をさらにひどくしているのはお前だ、自覚しろ」
 血が滾って、身体がカッと熱くなる。
「あいつを病院へ連れていけ、弟だろう」
 ぼくは拳を振り上げた。が、手首を掴まれて、腹に肘鉄を食らう。吐き気がこみ上げる。身体を折り曲げて咳き込むぼくを残して、足音が遠くなる。
 いつかは兄も大人になって、夏休みの国から去っていくのだろう。しかし、出口は決して病院の無機質な扉ではないし、人魚や半魚人が上がってくる秦野港の手すりでもない。
 兄は特別な人間だ。アイルランドの妖精や幽霊と話ができる人々といっしょなのだ。兄のやわらかい心に傷をつけたあいつを、ぼくは生涯許さないだろう。
 兄はどこへ行ったのだろう。ぼくはしゃぎりが続く神社を抜けると、となりでひっそりと静まりかえっている護福寺へ向かった。

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