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2023 未来コオロギ サンクチュアリ

スピッツの楽曲にSSを書く 3 未来コオロギ

サンクチュアリ

 オフィスに届いた興信所の報告書を開く。二十二時、仕事の電話が鎮まってからの作業になる。
 定期的に届く妻の浮気調査の報告書に、妻の親友の名前が記載されるようになった。三ヶ月前、能の観劇を終えた帰りのカフェの写真で、妻は自分が見たこともない、少女の羞じらいの笑みを親友へ向けていた。
 妻の大学時代の親友である彼女にも夫がいる。妻とその親友で蓼科の別荘へ一週間旅行するのが、妻のささやかな息抜きだった。
 一年に一回、一週間の旅行。妻はそこで、母親であることを忘れて学生時代の自分に戻りたいと言っていた。
 二児の母親になってから、妻は自分との営みを拒否するようになった。その代わり、自分が誰と浮気しても、妻はそのことには何も触れない。
 限りなく恋人に近い雰囲気の、同性の友人との写真。興信所の調査員は、自分が別荘での妻を追跡してほしいと言ったとき訝しげな顔をした。彼は自分が考えすぎていると思っていたのだろう。しかし、妻の表情を毎日見ている自分にはわかる。
 妻の静かな顔にいつもかかっている、淡いもやのような翳りが、その写真にはない。
 妻が自分と望んで結婚したわけではないことは、始めからわかっていた。互いの家の事業を拡大するために、あらかじめ定められた道だった。自分にも妻にも逆らう意気地がなく、妻の大学卒業後に式を挙げた。
 これから親戚となる人々の酔態を、別世界の生き物を見る目で伺っていた。今後自分が彼らに頼ることはないだろうと、作り笑いの奥で考えていた。
 妻と結婚した理由を聞いて、浮気相手は軽蔑したような顔をした。
 「条件が一番合っていたから」。
 若い彼女には、自分の行為がふがいない打算のように見えたのだろう。
 彼女は本当に愛せる人を見つけると、何のためらいもなく自分のもとを去っていった。以来中指にしか記憶が残らない女だけを抱くようにしている。
 報告書には七日間の妻の行動記録と、写真がまとめられていた。観光にも行かず、きらびやかな買い物や食事にも縁がない一週間の記録だった。穏やかな休日だったのだろう。蓼科から帰ってきた妻の頬には、内側から鈍く発光するような淡い光が載っていた。
 一瞬で溶けてしまう雪のはかなさで、淡い光は消えていった。妻には自分に手の届かない心の領域があるのだと、胸が苦しくなる。
 一枚の写真に目を止めた。妻と親友が街の回廊を歩いているスナップ写真だった。
 淡いグレイの壁に、天井からパステルカラーの光が点々と降り注いでいる。三角や楕円、星のような砂粒の光は、回廊の天井に細工された色ガラスによるものだった。
 カラフルな雨のように落ちる光のなかを、妻と親友が笑いながら通り過ぎていく。妻の長い髪が風を孕んでふんわりと広がっている。
 その風を、その光を、同じ場所に立って感じたかった。
 その笑顔を向けられたのが自分であったなら。
 誰もいないオフィスに車のクラクションの音が流れていく。
 結婚して六年、初めて妻に恋をした。わけのわからない焦燥感に駆られて、一点の染みもない妻の浮気の痕跡を探し続けていた。
 自分を静かに拒絶する理由を、何としても探さなければと思っていた。
 同じ空間に住んでいるのに違う階層に佇む妻の細い肩を思い出す。
 少女から大人に帰ってきた妻の手を、自分に取る権利がまだあるだろうか。
 あの淡い翳りを払う方法を、見出だすことができるだろうか。
 スマートフォンを取り出して、電話帳を開く。
 中指てしか覚えていない女のアドレスを開いて、次々と削除していく。
 指の腹から白い光が煙となって舞い上がる。電子の記憶が水辺から解き放たれて、空に羽ばたいて消えていくのが見えた。

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