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2019 秘蹟

夏目漱石『こころ』の二次創作です。K×先生。 BL的(男性の同性愛)な表現があります。
私に宛てた先生のその後の手紙。

 手紙とは、読まれたい思いと読まれたくない思いが混交して存在するものであります。私が以前あなたに私の心臓の血しぶきを浴びせかけたとき、私は襖に浴びせかけられたK の血しぶきをそっくりあなたに投げつけたのです。あなたは私の血しぶきを浴び、唯一私の罪を知る者となりました。聖餐の血を分ける儀式のように、あなたが私の手紙から、もしくは心臓から一片の真実を掴み出してあなたの糧とすることを望みます。

 あなたには、私がK から御嬢さんを出し抜けに奪い取ったように見えるでしょう。が、私には逆に御嬢さんがK の心を奪い取ったように見えました。自分の道を愚直に邁進していたあの男を、御嬢さんはうら若い娘だというだけで籠絡したのです。私にはそれがK の赦しがたい裏切りに見えました。

 私が勉学に励んでもK に遠く及ばなかったことは、以前も書きましたね。K は真宗寺の生まれでしたが、道のためにはすべてを犠牲にしなければならないと信じている男でした。道を阻む俗世の欲や煩悩を軽蔑し、注意深くそれを排してきた。その矢先の出来事でした。

 私は仏の前で自らの身体を火中へ投じた兎のようなものでした。K の俗欲を断ち、彼の道を阻む御嬢さんを取り除くために、私は自分の身体を差し出したのです。

 彼の精神の気高さを守るための行為が、彼を追い詰めることになろうとは、私には思いもよらない事態でした。

 K は私に嫉妬したのです。そして、嫉妬する自分の醜悪さに耐えきれなくなったのです。K はあくまでもK という精神の牢獄の虜囚でした。K は私を憎む刃を自分の心臓へ向けました。そして私に、K の血しぶきを浴びせかけたのです。

 K の心に私へのあてつけの感情はなかったと思います。彼はあくまでも自分の精神の足踏み車(トレッドミル)から逃れられなかった男です。K は私への嫉妬を、堪えがたい醜悪なものとして捉えていたことでしょう。もはや自分の生を続けられないと思うほどの罪悪と受け取っていたのだと思います。

 K の精神は鋼のようなものでした。強固で頑なな精神は、一度傷を受けると脆く崩れ去ってしまいます。『もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろう』というK の遺書の最後の一節は、私の心に痛切に響きました。K の強くて脆い精神を身近で知る者は私ひとりであったのに、私はどうしてK の自死を止めることができなかったのか。K のなかに生まれていた自我の萌芽を、よりによって私が摘んでしまうことになろうとは。私は彼を評価しすぎていたのです。彼が高く足場のない塔に追い詰められた精神の虜囚であったことに、考えが及んでいなかったのです。

 私はK に軽蔑されることを望んでいました。御嬢さんにうつつを抜かして、俗世の垢に塗れて生きていく私のことを。

 そして私には到達しえない精神の高みから、私を見下ろして嘲弄することを望んでいました。『精神的に向上心のないものは馬鹿だ』というK の言葉を彼ひとりだけは愚直に実践するのだろうと。私はK に高くあってほしかった。深く澄んでいてほしかった。私が投げ返した彼の言葉に対しても、しんとして動じない、水のような精神であってほしかった。

 K への感情が一言で片付くものであるならば、私も彼と同じ運命を辿らなかったのかもしれません。しかし、私は彼の理想(イデア)を愛し、彼に期待しすぎていた。その罪を私は購わなければなりません。彼と同じ方法によって。

 ここまで書けば、私があなたに恋は罪悪だと言った理由がわかると思います。私はK を愛していました。K を俗欲に塗れた存在にしたくないという思いが、彼を追い詰め、自死に追い込んだのです。私は彼と同じように、もっと早く死ぬべきだったと幾度となく思っていました。が、あなたが私の目の前に現れたことで、私はあなたに自らの罪を託して死んでいくことができる僥倖を得たのです。

 私の胸から掴み出した心臓の血しぶきが、あなたの人生の糧となることを祈ります。

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