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72/100 夏休みの国の子供1

文字書きさんに100のお題 062:オレンジ色の猫

夏休みの国の子供 1

 ぼくのひとつ上の兄は、変なものを見たり聞いたりする人だった。兄が朝起きると、天井に漂う海藻や猫やスノーマンが出る。それは入眠時幻覚といって、眠る前やあとに生じる現象だという。
 ――幽霊は見えないので、ぼくに霊感はない。兄はそう言い切った。

 ぼくが高校の補習から家へ帰ってくると、兄は机に数学の問題集とノートを広げてぼんやりとしていた。
 ノートにはこう書かれていた。

彼は肋骨のなかでふたつの鼓動を飼っている

 ぼくが何これ? と聞くと、兄は不思議そうに詩かな? と言った。筆跡は兄のものだが、兄は書いた覚えがないという。兄の奇行には慣れているので、ぼくはいままで何をしていたの? と訊ねた。
「海へ行ってたよ」
「じゃあ海で拾ったんだ」
 ぼくたちは次の日、秦野港へ行くことにした。

 ぼくは兄と秦野港へ行った。狭い湾のなかに巡るアスファルトの坂道を並んで下っていく。空には濃い煙のような積乱雲が浮かんでいて、突き刺さる日差しとともにアブラゼミの声が降ってくる。
 護福寺のナマコ壁へさしかかる。寺の門では赤紫のブーゲンビリアがつやつやと光っている。兄は花にじっと見入っていた。兄には兄の時間、ぼくにはぼくの時間が流れている。ぼくが門を通りすぎて木陰に腰を下ろすと、二三分ほどで兄が目をしばしばさせながら歩いてきた。
 小さな港には白い漁船と、斜めに走る防波堤、黒い岩が連なる渚があった。渚の中央にコンクリートの道が敷かれ、金属の手すりが海のなかへ伸びている。
 子供のころに母が、それは人魚や半魚人が陸に上がるための手すりだと言っていた。正解はダイバーが海へ潜っていくポイントだ。母は子供に嘘を教えるのが好きだった。だから兄のような変な子供が生まれたのだろう。大人は兄の幻覚を信じていなかった。本気で信じたのは、ぼくともうひとりだけだった。
 岩場では、数人の釣り人が釣りをしていた。兄は吸い寄せられるようにひとりの釣り人へ近づくと、十メートル離れた黒い岩に腰を下ろした。
 兄と並んで座る。熱が岩から這い上がってくる。
 釣り人が振り返った。兄と目が合う。兄は釣り人の生気のない顔を眺めていたが、釣り人が海のほうへ向き直ると、ブーゲンビリアの残像に毒されたように目をしばしばとさせた。そして、頬を赤くした。
 釣り人の竿が弧を描いた。しかけのついた針が、光の軌跡を残して海へ消えていく。釣り人の邪魔になることに気づいた兄が、ぼくを促して立ち上がった。
 おぼつかない足取りで、兄は岩場から防波堤へ戻っていく。
「――遠くなった」
 兄はアスファルトに伸びたふたつの影を振り返った。
「――心臓の音が、遠くなった」

 兄は毎日海へ通うようになった。
 ついていける日はぼくも同行した。兄は生気のない顔をした、二十歳前後の釣り人を見に――ふたつの心臓の音を聞きに――秦野港に行っては岩場へ腰を下ろしていた。釣り人へ声をかける気はないようだった。

 兄が夏風邪を引いた。
 寝ている兄を残して、ぼくは秦野港へ向かった。
 その日も釣り人は渚で魚を釣っていた。アジやアオリイカ、クロダイなどが獲物だ。
「もうひとりはいないのか?」
「熱出したんで。風邪で」
 釣り人は四角い顔に一重の目と高い鼻、大きくて薄い唇をしていた。あまり表情が変わらないから生気がないように見える。
 釣り人は東京の大学の学生だった。帰省しても退屈なので毎日釣りをしているという。
「家に野良猫の兄弟がメシ食いに来るんだよ。赤茶のシマ猫で顔そっくりでさ。お前らによく似てるよ」
 ぼくらは顔が白くて釣り目で口が小さい。夏休みに床屋でお揃いの茶髪にしたので、よく似た兄弟だと言われる。が、ぼくは兄のような特別な人間ではなかった。
「兄は変なので、なるべくいっしょにいるようにしてるんです」
「変ってなんだよ。変態か?」
「霊感のようなものがあって、下手すると向こう側へ行ったきりになっちゃうので」
 兄が兄の親友と幻覚を分かち合っていたころ、ぼくはずっと兄に置いてけぼりにされていた。
 兄たちはパチパチ泡がはじけるソーダの雨、空を歩く象の群れ、台風の目のなかに空中庭園を見ていた。毎年巡ってくる夏は、ふたりだけの特別な夏休みだった。
 しかし、兄の親友は一足先に大人になってしまった。受験とサッカーの国に行ってしまった親友が、兄は頭がおかしいと言った。
 兄は夏休みの国に取り残されたまま、誰とも話をしなくなってしまった。
 以前よりよくなったいまでも、兄は知らない人に声をかけることができない。
 そんなぼくの話を聞いていた釣り人は、お前じゃなくて、直接そいつが来いよと言った。
「気持ち悪くないの?」
「まあな。でも、話してみなきゃわかんねえだろ?」
 釣り人は、今度はバケツを持ってこいと言った。
「猫にやるアジ分けてやるから」

 ぼくは家に帰ると、ベッドに寝ていた兄へ釣り人の話をした。
「だからさっき魚が泳いでたんだ」
 兄は天井に逆巻く白い波と、その下を泳ぐ銀色の魚を見たという。
 兄は熱でのぼせた顔をぼくに向けていたが、やがてあっと短く叫んだ。耳まで赤くして、青いタオルケットの奥へ潜ってしまう。
「やっとわかった」
 タオルケットの塊がもぞもぞと動いた。
「あれは、ぼくとあのひとの心臓の音だ」

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