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普通の朝を迎えることの出来る日

ひと雨毎に寒さは増し、師走は晦日に近づいていく。
あと、10日でクリスマス、その先には大晦日、年が明ければ正月へと続いている。
子どもの頃から変わることのないこんな時期、無条件に私はいつも浮かれていた。

今思うに何が楽しく浮かれていたのであろう。
遠い故郷に待ちわびる老いた両親の顔を見たかったのであろうか。
心の底に焼き付いた見慣れた野山の姿を見たかったのであろうか。
変わらぬと信じこむ友と酒を酌み交わすことだったのであろうか。
しかし、両親はこの世を後にして、野山は私に断ることなく人間の生活に巻き込まれ戻れぬ姿に変わり果て、友は生きるがための荷を増やし舵は自分の持ち物ではなくなっている。

純粋だったあの頃に、何も知らなかったあの頃にもう戻ることは出来ない。
純粋に、ただ明日の目覚めを待ちわびたあの頃にもう戻ることは出来ない。

でも、それはそれでよいのである。

何でもない日、クリスマスでも大晦日でも正月でもバレンタインでも入学式でも子どもの日でも母の日でも父の日でも盆でも私の誕生日でも文化の日でも勤労感謝の日でもないそんな日を、ただの普通の日を普通に生きることが出来る楽しさをいつまでも私たちは享受できるはずである。
そのためには有難みを感じず生きるこの普通をこの今を大事に生きねばならぬと思う。

さらには有難みを感じず生きるこんな普通の生活を子ども達のために残さなければならぬと思う。
そんな未来にするために私たちは責任を課せられているのである。

そのために私たちは見なければならぬ、聞かねばならぬ、疑義を感じねばならぬ、憂い悲しまねばならぬ、泣かねばならぬ、腹を立てねばならぬ。
そして、責任を感じなければならぬ。

目が覚めれば普通の朝がある。普通の一日が始まる朝がある。

それを壊さぬために私たちは今普通に生きることに責任を感じなければならない。

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