見出し画像

そして足るを知るということ

合気道の道場でお借りしているレンタルスタジオの一階にある石材屋さん。
ここの見かけと違う優しいご主人が養うメダカに挨拶して道場に上がるのが私のルーチンになっている。私が子どもの頃はまだ近所の小川でメダカを見ることが出来た。だから、なんとなく私にはメダカを自分の家で飼うって感覚にはならない。自然の中に在るもの、私たちが生きているのと同様にそこに生きているもの達だと思っていた。
ここにいる彼ら彼女らの世界は狭い。綺麗に掃除され、水草もあるものの、小さな小さな世界である。子どもの頃に私が目にしたメダカたちの住む小川はもっと広くもっと深くその先は広い河、そして大海へと続いていた。

閉ざされた世界なんて考えるのがおこがましい勘違いなのであろう。突き詰めて考えれば私たちも地球という大きな水槽の中にいるわけで、その水槽の大きさが違うだけである。こんなことは古来から誰もが考えて来たこと、私が思いを詰めて考えるほどのことではないと思うが、いつもここで彼ら彼女らの元気な姿を眺めて私とどちらが幸せなんだろうと考える。

足るを知るか知らぬかの世界のように思いもするが、この足るを知るってのはいったい何なのであろうか。
一度消化不良を起こすほどとことん知ってみなければ足るかどうかは分かりはしないように思う。そこまで知ってみることのない知足ちそくであれば、ただのはなからの諦めのような気がする。一度は私たちの生きる原動力となる欲が必要だと思う。周りから指さされるくらい欲にどっぷり浸かってみて初めて知足ちそくの足るを知ることが出来るのではないだろうか。

合気道の稽古に足るを知ることは無い。他の武道も同様であろう。極めるという言葉はあるが、その頂点を知る者は誰も居ないであろう。年老いて力尽きたとしても手練てだれた技術で生き残れるかも知れない。しかし、それさえいつまでも続くことではない。完成を思い描きはするが、それを形にするすることはいつまでも出来ず、戦わぬことを一番の極みのように誤魔化したりする。

知足ちそくの無い世界があってもおかしくないと思うのである。
未来永劫ではなくある時期だけでもそんな事があってもいいのではないかと思うのである。
そこを通り越して初めて知足ちそくが腑に落ちてくるのではないかと思う。

私は普通の人間である。知足ちそくなどと無縁のままこの世とおさらばでいいと思っている。たぶん水槽のメダカたちも何も考えてはいないであろう。メダカらしく生きるメダカたちのように私も人間らしい人間として生きれたらいいと思うのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?