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阿倍野の夜

自分の年齢のことを時々考えるようになった。
こんなことが歳を取った証拠なのかも知れない。
「まだまだ若い」と先輩方からは言われるがそれは当たり前のこと、誰もが同じように歳を重ねるのだから先輩方から見たら、そりゃ私はいつまでも若い。でも、一般的に見れば若くはない。髪には白いものの方が多くなってしまい、電車の席を女子高生から譲られたのは一度や二度ではない。そのたびに自分の年齢を痛感してしまう。

合気道の稽古の帰りに阿倍野でワインを飲んで帰った。
いつものこの時間に行く店である。
マスターが笑顔で出迎えてくれ、いつもの顔、久しぶりの顔と挨拶を交わす。顔見知りばかりの飲み屋はもうここだけかも知れない。
こんな付き合いも年齢とともに減っていくのであろう。
こんなことも歳を取った証拠なのかも知れない。

人間が飲める酒の量は誰もがそれぞれ決まっていると私は常々思っている。
それもビール、日本酒、焼酎、ワインとそれぞれ決まっているんじゃないかと最近思っている。この頃ビール、日本酒の量は減り、なんだかワインが増えているのである。この数年、たまたまこの店に来るようになったからだけのことかも知れない。後輩からは「先輩の身体のどこかには穴が開いているから決まった酒の量に到達することは無い、酒を飲まなくなったら先輩らしくない」と言われる。

深酒が無くなったことはよかったと思っている。まったく無くなったわけではないのだがかなり少なくなった。翌朝の二日酔いでの後悔の念と残ったアルコールで回らぬ頭、これまでどれだけ時間を無駄にしてしまったかと思ったこともあった。でも考えれば、何の理由も無く深酒になることは無かった。だから意味のある深酒だったのである。
夕刻、ただ時間がやって来たから酒を飲もうというのはなんだか好きじゃなかった。
酒を飲む、そこには必ず理由があった。
仕事が終わった区切りであり、自身へのねぎらいでもあった。
嬉しいこともあれば悲しいこともあった。万能ではない酒の力を借りて辛さを忘れたふりをして飲むこともあった。
男は、いや男も女もなんだかんだと言い訳をして酒を口に運んできた。
そんな空虚にも似た人間の酒飲という行為があんがい経済を回していたりする。

それも酒飲みの屁理屈かも知れない。
しかし、いつの世、どこの国に行こうとも酒に出会わないことは無い。
無駄とも思えるこの時間を無くしてしまえばきっと他で無駄といわれる時間が生まれてくる。
そう考えればなんと有益な時間と思える酒飲の時間なのである。

男たちは今宵も酒を飲む。
なんだかんだと言いながら、なんやらかんやら言われても男たちは今宵も酒を飲むのである。

そして今宵も静かに夜は更けていく

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