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これも浮世の付き合い

誰にも口外していない私の休みを見計らったように、午後電話がやって来る。
「今日、時間ありませんか」と。
やらねばならぬこと、片づけなければならない仕事もあるくせに「おお、どこに行ったらいいんだ」と、口が勝手に動いている。
後輩からだから断わるわけにはいかない。
先輩ならば、支払いの心配が無いからもっと断らないかも知れない。

こんな付き合いがコロナが落ち着き始めてから増えている。
結局は自身で気付かねばならず、自身が持つ答えの再確認になるのだが、そこにたどり着くには話し相手が必要なようである。
訓練を重ね、自分で導き出す答えに自信が持てるようになる頃には、都合のよかった先輩はこの世の人ではなくなっているのだろう。
まだ私は賞味期限内ということであろう。

この歳になって酒の飲み方が変わって来た。
やっと飲み方が分かってきたと言うべきかも知れない。
若かった頃のように無茶な飲み方はしなくなった。
飲まねばならぬ事情や環境が整ってしまったら飲むこともあるが、普段はビール一本、酒二合で十分である。
あとは焼酎の水割りかロックをちびちび舐める程度である。

ひたすら話を聞いている。
カウンセリングと同じである。
相槌を打ちながら、ひたすら話を聞いて相手の心の声をあげさせるのである。
わざわざ酒を飲む必要はないだろう、そう囁いてくれる人もいるが酒の持つ力は大きい。
マイナス面ばかり目立ってしまうのかも知れない。
そんなに悪いものであるならば、とっくの昔にこの世から消え去っているであろう。
地方の小さな酒造メーカーから株式上場する大企業まで日本中で酒類を造り、酒税をかけて国も認める酒である。
良い事だってあるのだろう。

人と会って酒を飲む。
「まずは一献、、」と挨拶代わりに酒を飲む。
高貴な人を迎える晩餐でも、長屋に住む八っつぁん達の仕事帰りの夕べにも酒が切れることは無い。
子が生まれ喜び酒を交わし、子が巣立ち祝い酒を飲む。
日々の、そして人生の節目において酒の存在は大きい。
人が死んでも酒を交わす。
死んだ相手に飲ませてやろうと墓に酒をかける不届き者もいる。
まあ、笑って許してやろう。

すべては酒飲みの自己弁護である。
山口瞳の「酒呑みの自己弁護」を中学時代に読んでえらく興味を惹かれた。
そこには

酒をやめたら、もしかしたら健康になるかもしれない。長生きするかもしれない。しかし、それは、もうひとつの健康を損ってしまうのだと思わないわけにはいかない

とあった。
高校時代には悪い仲間と酒を飲んでいた。
それを知った母に「私の前で飲みなさい」と言われた。
その後、清く正しく酒をいただき続けた。

また今晩も酒を飲む。
清く正しく酒を飲む。
先輩二人に挟まれて梅田で沈没しないようにしよう。
仕事だと言い分けしながら、日本経済を回すためだと大義名分らしきものを振りかざし、今宵も私の健康のために美味しい酒を飲んで来よう。

「浮世の付き合い」、美しい日本語とも思うが、これも都合の良い酒飲みの自己弁護である。

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