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阿倍野の飲み屋のものがたり(兼業・副業ノススメ)

はじめに

なんとも生き辛い大変な世の中になってまいりました。
『終身雇用制度』なんて言葉はもともとあったものではなく、過去を振り返り時代の流れとともに変わっていった雇用体制を定義したもので、ただの整理用の言葉なのでしょう。
そう考えなければ生き辛くって仕方ないサラリーマンが多いはずです。

かく申す私も、もともとはサラリーマン、50歳で家族の介護と看護のため、介護休職を余儀なくされ、54歳で途切れぬ家族の災難のため世で言う『脱サラ』をしましたが、更なる家族の病気のため再び雇われの身となっています。

この数年で更に大きく変わって来たこの雇用情勢を考えれば、あの時に真面目に会社を辞めずに昼は建設業界の営業マン、夜は飲み屋の親父の兼業、副業で走ればよかったと思ってます。

私が脱サラしてやっていた飲み屋家業、傍で見て思うほど楽な商売ではありません。単独店舗で大儲けは出来ません。働き方改革なんて他国の噂話にしか聞こえてこない業界です。しかしその中にはサラリーマンでは経験しようのない、人との出会いと、人の本質を見る機会がありました。世の表も裏も見てきたつもりだった私にも新鮮で、面白いことが多かったです。

私が若かりし頃、ほんの二、三十年前とすっかり変わってしまったこの世の中をこれから生き抜かねばならない、特にお若い方に私は兼業や副業で生きて行くことをお勧めします。自身の視野を広げるためにも自身の心に余裕を持つためにも様々な経験をするべきです。
そして、「それをしなさい」と言っているのが世の中の今の流れです。
生活のための固定費は主たる仕事で稼ぎ、これから生きて行くための余力をこれまでやったことの無かった事、やってみたかった事、後々自身の人生を後悔すること無く、面白さを感じることの出来ることを兼業や副業でやってみたらどうでしょう。

そんななか、限りない選択肢の中に飲食業という接客業もあります。ただ、慣れるまで一人での兼業、副業が出来るほど飲食業は甘くはありません。仲間、同居のパートナーとの共同でも構いません。複数人で資金も労力も出し合ってやってみたらどうでしょう。その業態は様々、兼業・副業というスタイルでの飲食業、主たる仕事を利用して新たな業態を作ることも可能でしょう。
そして人との出会いがあり、新たなことを始める事によって新しいことは始まり、人生を考える機会にも恵まれます。
そんなことを考えていただくためにも、私が過去綴った『阿倍野の飲み屋のものがたり』から二編を選び出しました。
現代社会が直面する問題にも飲み屋稼業が関われるなにかがあるかも知れません。


『創作大賞』という場をお借りして若い皆様にこの先の自身の人生をしたたかに生き抜き、振り返った時に後悔は無く、楽しかったと思えるものにしていただきたく提案いたします。


恋のおわりは

私が以前、恋の病に取り憑かれたように始めた『立ち飲み屋』の話を綴りたく思う。
多くのお客さまに足を運んでいただいた。
多くの友人も日本中から集まってきてくれた。
やんごとなき事情で再び方向転換をするまでの一年半の時間をともに過ごしていただいた皆さんとのお付き合いの話が中心である。

まずは簡単に店の周囲の雰囲気をご理解いただければと思う。
私は大阪の人間ではない。
大阪は人に優ししく、よそ者の私にも優しい街である。
その中でもこの『阿倍野』って街が、素敵に人に優しい街だと、ご理解いただきたい。


2015年、私はサラリーマン人生に終止符を打った。
本当はもっともっと早くに辞めるつもりでいた。
でも人生はままならないもの、家族の看病、介護、予想もしなかった息子の不登校、前向きな自分の将来など考えることなど出来ぬほどいろんな出来事があった。
しかし、口に出すか出さないだけのこと、誰もがいろんな事を抱えながら生きているのが人生だと思っている。
そして、そんな爆弾を一つや二つ抱えていなければ本当に人に優しくなんか出来ないとも思っている。

大阪は阿倍野、最寄り駅はJRでは天王寺駅、近鉄阿倍野橋駅、大阪市営地下鉄では天王寺駅、阿倍野駅とどれも徒歩ほぼ5分の便利な立地である。
あべのハルカスの裏あたりの飲食店の集まる繁華街の一番隅っこのビルの1階に私の店はあった。

そんな街ではありながら、この阿倍野、阿倍野区の西に隣接するのは西成区である。
ご存じだろうか、あの『あいりん地区』がある西成区である。
東京の山谷、横浜の寿町とならび日本の三大ドヤ街の一つと称する奴もいる。私の店からでも徒歩圏内にこのあいりん地区はあった。

皆さんはこの『あいりん地区』にどんなイメージをお持ちだろう。
ここもまた人に優しい街でなのである。
爆弾を抱えた連中が集まり、その爆弾には触れずに互いをかばい合うように生きている人たちがたくさんいる街なのである。

最近星野リゾートが付近との調和を崩すホテルを建て、行政は街のイメージを変えようと策略を練っているようであるが間違っていると思う。
そっとしておくべき場所なのである。
何度もこのエリアの飲み屋にも行ったが、所詮私はそこを通過するだけの男、そんな人間の行くところではないと思った。
汗を流して働き、一日の疲れを忘れ、日々まとわりつくいろんな思いを整理するためにその日の日当を使い、しばしの幸せを手に入れている男たちの大切な場所に我々が物見遊山で行くべきではないと思っている。

そんなところから歩いてくることの出来る街で私は仕事をしていた。
そんな不思議な、人に優しい街で私は『飲み屋稼業』に恋をしていた。
そして、その恋は実は今も続き、たぶん死ぬまで続くものと思っている。

やめて初めて片思いと知った、私の恋の思い出話をお聞き願いたい。


阿倍野の飲み屋のものがたり  その3(ポテトサラダ編)

ガラガラと半開け状態のシャッターを開け切り、のれんを出すとすぐにのぞいてくれた女の子がいる。

「宮マス、三人いける?」と元気よく話しかけてくる。
いけるもなにも開店したばかり、客などまだ誰もいない。
「好きなところどこでもいいよ」と言うと、まだ残った仕込みをしている私の前に来る。
彼女は初めて来た時に私の名前を確認し「宮島さんがマスターだから、宮マスだわ~」と言い、それ以降ずっと彼女は私を『宮マス』と呼んでくれた。
そしてその『宮マス』は彼女と私の間でしか流行ることはなかった。

その日は彼女の友人と彼女の彼氏三人での飲み会だと説明してくれた。
私の息子と変わらぬ二十代後半だった彼女らは同じ高齢者介護施設で働く三人であった。
愛知のグループホームに預けていた母のこともあり、彼女らの話をそっと聞かせてもらうことがよくあった。

飲めば声は大きくなるし、心配になるほど酔っぱらうし、どこにでもいる二十代の若者だと思って話を聞いていたが、こと介護の話になると真剣だった。
ある時はおじいさんの話だった。
彼が言うには、かなり認知症の進んだその方は自身の排泄行為自体を理解できないほどまでになっていたそうである。
朝起きれば、壁中自分の排泄物を手で塗りたくり、部屋の模様替えが勝手に終わっていたり、ある朝などはおじいさんの髪の毛がキンキンの金髪になっていたと。
「お風呂に連れて行って頭洗いましたよ」と笑いながら言う。
「ゴム手袋してるから平気なんですよ」と笑いながら言う。
「でも、時々指先が破れてるのに気付かない時があるんですよ」と笑いながら言うのであった。
その笑顔が頼もしい彼であった。

そして、二人は結婚した。
私の店で二人は将来を誓い合ったという。
しかし彼はその介護施設を辞めて介護資格取得の専門学校に就職した。
二人の給料を合わせても子どもの将来を考えると先の生活はきついと彼は私に言った。

介護の世界の現実を知ったような気がした。
あって当たり前、無くては困る介護である。
誰もが歳をとり、誰にも頼らず生きていける保証などありはしない。
彼らの当然である労働の対価は将来の心配をすることなく子育てをすることも叶わないものでいいのだろうか。

彼は結婚してから時々彼女ではなく、施設で共に汗を流した後輩の男性を連れて来てくれた。
生ビールを片手にポテトサラダをつつきながら、「辞めたい」と言う後輩男性を辞めぬように説得しているのであった。

私は、おいおい、説得力が無いだろうと思いながらも黙って聞いていると、仕事をすべて覚えてから辞めろと言っていた。
ああ、しっかりした子だな、こんな子たちが介護の世界にいてくれるのならば将来は明るいかも知れないな、と思ったのである。

介護は誰もが知るべきことで、当たり前の世界であっていいように思う。
そのために介護実習を義務教育のカリキュラムに組み込んだり、大学での必須の単位としたらいいようにも思う。
人手不足の解消に役立つようにも思う。

そして、店を閉める最後の日には花と店で撮りためた写真をアルバムにして持って来てくれた。

そして、時間は経ち、可愛いい女の子が生まれて私の合気道の道場まで連れて来てくれた。

『三人に幸あれ』と、ポテトサラダを食べるたびに思い出してそう願っている。




阿倍野の飲み屋のものがたり  その5(ネギ入り玉子焼き編)

最初はだれでも一見いちげんだ。

立ち飲み屋は飲み屋の中でも一見いちげんさんの多い業態だろうと思う。
たいていの立ち飲み屋はこの流行り病の前から入り口はオープンである。
そして、客単価は安い。
誰でも入りやすいようにしてあるのである。

考えれば私の店にもたくさんの一見いちげんさんが足を運んでくれた。

それは開店してそれほど時間は経たないまだ陽の残る夕方だった。
「よろしいかしら」その女性客は関西弁を使わなかった。
その女性客も私の前に立った。
短髪の品の良い七十は過ぎているだろう着物姿の女性だった。
私はとっさに非常用に置いてあったスツールを女性のために取り出してしまった。
あとで考えればそれが仇になった。

座った女性はライムのチューハイで急に口が軽くなったように自身のことを話し出す。
東京のご出身、見合いで見染められて気が進まなかったけれども大阪まで嫁いだこと。
ご主人は数年前に亡くなってしまって一人暮らしであること。
ご主人との生活には満足を感じることは無かったことまで。
そう言いながら、ご主人にもらったのだと指が筋肉痛にならないかと心配になるようなデカいダイヤの指輪を私に見せてくれた。

そこに「おお、宮さん土産だ」とパチンコ屋からの帰りのいつもこの時間にやって来る近所のビルのオーナーが単価一万円のチョコレートを二つカウンターに置いた。
生ビールを注文し、「宮さんも飲んでくれ」と言い、私が注いだジョッキを手にそばまで挨拶に行くと耳元で「あの人よく来るのか」と囁く。
「なんで?」と小さな声で聞くとここらで一番の地主でビルもいくつも持っているらしい。
「そうですか」とお聞きし、必要最低限の情報として頭に仕舞った。

その女性に「何か食べるものを、」と言われてネギ入りの玉子焼きを焼いた。
聞けばここに来るまでに近所の高い寿司屋に人に誘われて行っていたそうである。
「美味しいお酒だけ頂いてきたのよ」と言った。
近づく不動産業者や建設業者が後を絶たないようであった。
私の焼いた玉子焼きを熱いうちに食べ切ってくれた。
そして「お兄さん、お料理上手ね」と標準語で言ってくれた。

初回からいけなかった。
寿司屋で飲んできた酒に加えてライムのチューハイ二杯で足を取られて自分の意志で歩けなくなった。
お客さんに店を頼んで送らせてもらった。
近くのデカい鉄筋コンクリートの家だった。
家にはお手伝いさんしかいなかった。

店を気に入ってくれたようで、その後も何度も足を運んでくれた。
店のにぎやかな雰囲気に身を置きたかったのだろう。
込み合う店内にいつも独りでスツールにちょこんと座っていた。
ご主人と二人で生活したお手伝いさんしか待たない家には帰りたくないのだろう。

ライムのチューハイ二杯か三杯、それからネギ入りの玉子焼き。
それでいつも軽い事故が必ず起きた。
ここでそれを書くことは出来ない。

日中、百貨店の入り口で娘さんと歩いている姿を何度か見かけ、ばったり出くわし、紹介されたこともある。
不思議であった。 
近くに住む娘、孫と一緒に生活出来ない姿。
毎晩家にいることが出来ないこと。
金はあっても幸せそうに見えないこと。

答えは難しくはない。

本当の幸せはそこには無く、同居人は寂しさしかいない。
金が全てじゃないということ。

今も自宅でネギ入り玉子焼きを焼く、その時にいつもこの女性を思い出す。



おわりに

これから未来を生きていく若い皆さんにこの先の暗さばかりを見て欲しくはありません。
自分の手で切り拓くことの出来る人生であると知って欲しいのです。
地道な努力でつかめる幸せがあると知って欲しいのです。

そして、なにかをやらなければなにも始まりません。
これからの新しいライフスタイルに兼業・副業があることを認識していただきたい。
この先の『ものがたり』を紡いでいくのは若いあなた達なのです。



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