見えそうで見えないもの
見えそうで見えないもの
相当その気になって見ないと誰の目も案外節穴なのかも知れない。
社会人の合気道の稽古において技の習得は容易ではない。週一度きりの限られた時間においての稽古で、毎日稽古する者たちに劣らずついて行くためには節穴のなかにでもいいから意思のある目を持たねばならないのかも知れない。
残された時間が限られているのである。学生のようにだらだらと現を勘違いした終わりの定まらぬ時間の使い方は出来ない。技という技術の修得のために日々の鍛錬を積み重ねる確たる志を持って道場の門を叩く者たちであるならば考えるべきであろう。それこそ一期一会を進行形で続けていってもらいたい。
かといって、かく申す事も聞く耳を持たなければ脳に届かないのである。
なかなか難しいことである。
それぞれの目的が違うからそこまで考えなくてもいいのでは、と言う方もいる。それも間違いではないであろう。しかし合気道という武道の道を少しでも感じたくやって来るならば相応の覚悟も必要である。「命を出せ」というわけではない。週にたった1時間か1時間半の稽古時間をどう考えるかなのである。その時間を生きた時間にするためにひたすらよく見なくてはならないのである。そしてひたすら繰り返して稽古することなのである。
社会人には学生たちには経験の無い実生活での練磨がある。合気道に限らず武道は心身一体である。社会で経験を積んで来たことが技の個性となって現れてくる。決して個人の腕力や体躯の違いで技が変わってくるのではないのである。もともと持つ気質や性格のようなものも関係するのであろうが、私はそれまでの生き方が技に出て来ると思っている。
だから、社会人の稽古のスタート時には学生たちのような体力や持久力は無くともいずれ勝る可能性はあると思っている。
あとは見る力、考える眼が必要なのである。
合気道の稽古に行く途中いつもJR天王寺駅前の歩道橋から通天閣をながめている。日曜の朝、花粉かPM2.5 なのか分からぬがボンヤリかすむ青空に稜線を視認して驚いた。通天閣の東側、新世界のスパワールドとの間にかすかに稜線が見えるのに気が付いたのである。東京のように大きな建造物の少ない大阪、この方向に神戸の六甲山系が姿を見せていてもおかしくないのである。
何年もここから通天閣を見ていたのに初めて気がついたのである。私の目玉は見る力のないただの節穴だったのである。
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