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阿倍野の飲み屋のものがたり その4    (ミートボールスパ編)

ノーパン喫茶なんてご存知だろうか、
朝早くから、もちろん女性もいる中でこんな話でスタートして申し訳ない。
時代は昭和、1980年頃、この阿倍野に『あべのスキャンダル』ってノーパン喫茶が出来て日本中で話題になった。

ウエイトレスの女性がパンツを履いてないそうな。
こぞって皆さん出かけたそうな。

当時そこから全国に広まった元祖ノーパン喫茶、ノーパン喫茶の聖地『あべのスキャンダル』は私の店の目と鼻の先にあったそうである。
のちにノーパンしゃぶしゃぶなるものも現れ、アホな役人が鼻の下を伸ばしたと記憶にある。
まだ新聞や雑誌を眺める振りをしてチラチラ盗み見るなら風情があると言ってやろう。
しかし、しゃぶしゃぶはダメだろ、肉を食う以外やることは無い、肉を食いながら女性のノーパン姿に悦に入るその神経が理解できない。
しかも接待、自分の金は一円も使わずに、である
恥じらいも風情も全く感じられない。
世も末だと思いながらニュースをみた記憶がある。

この阿倍野のこのエリアは、一時期は日本の百貨店で一番の床面積を有した近鉄百貨店が建ち誇り、今はあべのハルカス、その真裏でちょっと寂しい雰囲気のあまりうるさくないエリアだった。
以前はラブホテルが立ち並び、風俗店もたくさんある場所だった。
そして、風営法は変わり既得権のある既存店舗が一軒、また一軒と減り阿倍野区の風俗店は一軒のみとなってしまった。
その一軒となってしまった『ファッションヘルス』なるものが私の店の二階にあった。(今もある。)
一部の方にはがっかりさせるが今日はその話じゃない

ビルは地下一階、地上三階、二階は全フロアがその『ファッションヘルス』、三階はその入り口を通過しなければ入れないのでずっと入居は無かったそうだ。でも二階から十分過ぎる賃料を取ってたんだろうとも思った。
地下一階、地上一階は飲食店舗ばかりの入るそんなエリアだった。
地下一階になんだか落ち着く素敵なワイン屋さんがあった。
人が店を作ると常々思うのだが、魅力的な店主がいらした。

私の店が五時開店、六時開店のワイン屋のマスターはよくその時間に寄ってくれた。
「晩ごはんだ」と言いながら腹にたまりそうなものを口にして、生ビールを二杯ほど飲んでいってくれた。
腹にたまるもの、炭水化物系は酒のあてでは少ない。私の店では、ポテトサラダ、マカロニサラダくらいだろうか。

そうそう、もう一品用意したいときの非常用にいつも『ママーゆでスパゲティ・イタリアン』を常備していた。
通常スーパーで5食入り398円くらいのが時々198円で並ぶ、その時に買ってストックしておいた。
そんなもので人から金をとるのかと思われる真面目な方もいるかも知れないが、所詮素人の私の経営するB級グルメ級の立ち飲み屋、美味けりゃなんでもありであった。
阿倍野筋にある有名な鶏屋で買ったミンチボールもいつも冷凍庫に置いていた、それとともにして一品を追加していた。

ワイン屋のマスターは時々開店時間の6時になっても地下に降りていこうとしない時があった。
心配になり、一応問うと「いいの、いいの」であった。

そんな時はしばらくするとワイン屋のお客さんがぽつぽつと、「やっぱここにいたわ」と一度降りた地下から上がってくる。どのお客さんもマスターの行動を周知しているのであった。
そして私の店は賑わうのであった。

マスターの店は『不定休』の店であった。
不定休のイメージを把握できなかった私にそれを教えてくれたのがこのマスターであった。

私と同じ鶏屋の包装を片手に、明らかに仕込み前なのに開店から飲み始め、閉店までいてくれるようなことも何度かあった。
そんな時は私が冷蔵庫に保管していた材料を翌夕に届けた。
私にはわからない仕事をしたくない理由がその時はあったのだろう。

頭のいい人で話が面白かった。
お父さまもご兄弟も教職に就かれている、そんなご家庭で育ったとも聞いた。
それでもマスターは飲食業界一筋の人なのである。
当たり前のことかも知れないが経営者であるマスターは自分の思うように仕事が出来る。
すべては自己責任であるが、、、

私のサラリーマンが嫌なのは、ここであった。
ひとたびいい会社に潜りこみ、定年まで可もなく不可もなく適当に生きる方法を身に付けさえすれば毎日は適当に、責任などとは無縁の世界でなんとかなってしまう。
こんなまわりに辟易した、そのくせ自分の身を守る時には自分より弱い相手や、同期にまでも牙をむく、そんなまわりが嫌であった。
私はそこまでして偉くもなりたくもなければ、そんなところで生きていけるほど強い心は持っていなかった。

バカな生き方かも知れない、でもやってみなければわからない。
机上でたてた作戦どおりに行かない営業が多かったように、、

生きるために始めた飲み屋家業には多くの師が現れた。
生きるために始めた飲み屋家業は生きることを私に教えてくれた。



今回と関係ありませんが、回転寿司のスシローは私の店のすぐそばにあった『鯛寿司』さんだったそうですよ、、、

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