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京橋で友との再会

ゼネコン時代の後輩と大阪京橋で待ち合わせた。
大阪支店営業部で一緒だった男で、年齢は私より7歳下である。現在は大手の建設機器のメーカー営業マンとして新潟に単身赴任中、自宅は横浜である。リフレッシュ休暇を利用して大阪まで出て来てくれた。

彼らはバブル期最期の入社組だったと思う。私はバブル前の冷えた時代の入社で同期の事務職は20名いなかったが彼らは3桁の同期がいたはずである。
営業部に彼を含めて同期の3名がやって来た。3人とも個性的で優秀であった。今そのゼネコンに残るのは1人だけ、皆それぞれの道を歩いている。

彼と最後にあったのは10年ほど前、彼が大阪まで仕事でやって来て梅田で一杯飲んで別れた。この10年間で公私ともにいろんな事があったようである。
時間が経つのは早い。その早かった10年間をお互い顔を合わせて即座に感じ取り朝からやっている飲み屋に入った。京橋で10時から3軒梯子して、勢いでそのまま難波まで行ってまた飲んで別れた。

たいした話をしたわけではない。何も変わらないゼネコン時代の彼がそこにはいた。家族の不幸や仕事での悩みや困難はあって当たり前である。そんな話はさらりと済ませ、前を向いた今やっている仕事の話と馬鹿話で過ごした数時間であった。

終身雇用が崩れかけ出した時代だった。私は入社当時に自分が転職をするなんて考えた事はなかった。しかし、バブルの時代は崩れ去り社員とその家族を支えきれなくなった会社に見切りを付けて社員の多くは自分の足で歩き出した。そんな時代ではあったが、社会人になった初めての会社ってのは特別であり、今でも思いはある。
それは彼も同じようである。だから顔を合わせばすぐにあの頃に帰りあの頃の空気に戻ることが出来るのである。
ある意味本当に苦楽を共にしたからかも知れない。

こんな後輩がいて、友として付き合っていけることを幸せに思う。
いろんな会社を営業として目にし、いくつかの会社に籍を置いてきて思うのは、時代は変わってきているがまだ『ザ・日本株式会社』的な良い意味での昔流の日本的な経営の会社は少なくない。

良い表現ではないが、出来る人間ばかり揃えるとその中で出来ない人間を生み出してしまう。全ての人間が会社という組織の中で役割を担っている。不要な人間は実はいないのである。

初めて配属された営業所の所長が私に「宮島君、会社の何割の人間が仕事をやってると思う」と聞いて来た時には「全員じゃないのですか」と答えた。
やり取りのあと、所長が私に言ったのは「でも切ったらダメなんだよ。」であった。
あれから40年。会社に、社会にずいぶん勉強させてもらった。

広く考えれば世の中全体がそうである。
不要な人間なんていないのだと普通に思い生きている私が今ここにいる。


働く男の背中はいいですね。 壁の値段表を見てください。 経営努力でしょうか、新しい価格の細かさにビックリしました。

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