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生きるためにやって来た仕事(そこで出会った人たち その2)

長い前段、その時どういう時代であったか

一昔前のゼネコンの世界、建設業の世界は古い体質のもとに成り立っていた。
第二次世界大戦後、敗戦国の日本、あちらこちらが焼け野原だった日本を復興させ、世界経済の中心にまで登り詰めるには建設業の存在はなくてはならないものであった。
破壊されたインフラの整備、経済大国日本を目指し各産業を育てるには発電のためのダムも、物流のための高速道路や鉄道もそこで働く人たちが安心して住むことの出来る住宅も必要だったのである。

昭和60年(1985年)、右も左も分らぬゼネコンの世界に飛び込んだ。
どこか山奥の現場にでも放り込まれるやも、と思い歯の治療のため大学卒業前に下宿近くの歯医者に通ったのが懐かしい。

入社してすぐにバブル景気はやって来た。
現場事務をしていたその頃は、作業服で祇園を闊歩し、クラブで午前様、当時は皆そのまま自分の車を運転して帰った。

日本のインフラは整いつつあり、それに合わせて当時の日本を支えてきた基幹産業は最高潮を迎えエネルギー、重工業、製造メーカー各社の成長は目覚ましいものがあった。

この『インフラが整いつつあった』ということは官庁の工事がピークを終えていたということである。
この官庁工事と言えば土木工事が中心であった。
私のいたゼネコンはもとの成り立ちで言うと土木の会社、入社当時に社内では土木が一番で次が建築、事務系はその下といった序列の風潮があった。

それが成熟を迎えた世の中で逆転していく。
土木工事の発注見通しは明るくない、調子よく成長する民間企業の設備投資に乗じなければならない。
要は、民間建築に注力しなければならなくなったのである。
そしてそれまでの天から落ちてくる仕事をキャッチする営業スタイルから、自ら作り出すスタイルの営業が求められたのである。

それまで大現場の所長の上りポストであった営業部長や、官庁から天下って来た営業部長ばかりの営業部に若い活力と知恵を注入しようという時期に営業部は移ったのである。


特殊と言われたら特殊、そこで育てばなんてことはない世界

『OBさん』と言われた方々が営業部にはたくさんいた。
こんなことは、ゼネコンの世界ばかりじゃないはずである。
私の在籍した大阪支店にも当時の建設省を初めほとんどの省庁から来ていたと思う。
当時はそれが当たり前で皆さんそれなりの仕事を土産として約束されて各ゼネコンへやって来ていた。

自衛隊上がりの方も数名いた。
労務安全の仕事などをやっていた。
警察上がりのもと署長にはずいぶん世話になり、いまだに付き合いがある。
おもしろかったのは、記者上がりの新聞社OBもいた。
五大紙の各OB達はそれぞれ各ゼネコンに席を置き、頻繁に出会って情報交換をしていたらしい。
でも一番の仕事は死亡事故などの重大災害を起こした際に各新聞社の口封じをするためなのである。
このOB達は情報交換と言う名目で会社の金を使い、四角い卓を囲み、陽の高いうちからチャイニーズゲームに興じていたようである。

そして、時々思い出すのが旧国鉄からいらした方々だった。
昭和62年(1987年)に国鉄は解体され、民営化された。
その時に多くの国鉄職員はゼネコンに限らずいろんな業界に身を転じなければならなかったのだろう。
もとの役職でゼネコンでの立場も違っていた。
私の記憶によく残っている方はその時にもう50歳は過ぎていたと思う。
入社直後にあった三か月の英語研修に参加されていた方だ。
研修中、日本語の使用は認められなかった。
全く畑違いからやって来たであろうその方は非常にまじめであり、使えぬ英語で苦労し、年齢でご自身のお子さんと変わらぬ私たちの中に入って苦しみ研修に耐えていた。
いまだに白髪混じりのやせ細ったその方が、ネイティブの講師に質問された時の困った顔を忘れることが出来ない。

多くのOBの方たちは陽当たりのよい席で朝から新聞を広げてお茶を飲み、午後にはいなくなっていた。


私はいろんなOBの方たちと接し、共に仕事をしてサラリーマンの悲哀を初めて感じていた。
生きるとは何か、家族を持つとは何かを考えていた。
たった一度の人生である、自身の意志で生きて行くことの出来ぬ悲哀を感じていた。


話は続きます

当時一万人の社員がいました。
私が知っているのはこの中のほんの一部なのですが、本当にたくさんの個性的な先輩方がいました。


まだ、この話は続きます。


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