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生きるためにやって来た仕事(そこで出会った人たち その3)

建設業界で30年以上メシを食わせてもらって来た。
ゼネコンでの営業10年の最後の一年間だった。
京都営業所に事務時代を含めて二度目の赴任、片道切符で大阪支店から出された京都営業所の所長は百戦錬磨の黒い噂のある所長だった。

しかし付き合ってすぐに多くを語らぬことにそんな噂のもとがあることは理解できた。
私は自由に動き回り、その所長に好きなように仕事をさせてもらった。

中国地方の営業課長から「ここで世話になっている社会福祉法人の理事長が兼務している京都の衛星都市の障害者施設で新築物件が発注される」と、情報をもらった。

公費の使われるこの手の物件で一社が最初から仕事を受注することは無い。
そこには入札という社会に対して説明出来るルールのもとに発注がなされねばならない。
しかしながら、そのルールには柔軟性も時には必要だったのである。

発注者は公費ばかりではなく私費、法人の貯えていた大切な資金を使わなければならない。
わけのわからない業者に手抜き工事をされるのであれば気持ちの合う意中の真面目な業者に仕事をしてもらいたい、そんな本心があっても当然だと思う。

発注者の意志で入札は行われ私のいたゼネコンが着工することとなった。
意志の強い理事長であった。
持病があり、身体は細くどこからそんな力が湧いてくるのであろうといつも不思議であった。

そして中国地方の施設まで行った際に思い切って聞いたのである。
「どうして私たちが意中の業者であり、そこまでしてくれるのか」と。
中国地方の営業所の仕事が良かったのも営業課長等の対応もピカイチだったのも知っていた。
でも私には不思議でならなかった。

「宮島さんにだけ話しておく。法に則っていないことをやっていることはよく理解してくれ。ただ、私は税金を、法人の金を一円たりとも無駄に使いたくはないんだよ。だから信頼出来る業者である宮島さんの会社に発注したかったんだよ。」
「どうして信頼できるかって?もちろんここの営業所はとてもよくやってくれた。法人の職員も利用者やそのご家族も皆よろこんでいる。だからお願いしたかったんだ。」
「それからね、もう50年も前なんだけれど私の弟が宮島さんの会社にいたんだよ。山奥のダム現場の電気技術者の駆け出しだった。私は十代の頃から病弱で家も貧乏で日本で黎明期だった福祉を勉強するために大学に行きたかったんだが二の足を踏んでたんだよ。そうしたら、その弟がずっと仕送りをしてくれてな、それで大学に行って、卒業できたんだよ。」

そして、その弟さんは現場での不慮の事故で急逝されたという。
弟への恩義を私がいた会社に対して返したかったとも言った。
それは主たる理由ではないにしても私的な理由、その事は私には話してはならないことであり、それを本来理事長は墓場まで持って行かければならなかったであろう。

それから数年後に理事長は亡くなっている。
あとから分かったことであるが、私のごくごく親しくさせていただいたOBが理事長の弟さんと同じ現場にいて事故も目撃していた。
あっという間の出来事、クレーンが間違った方向に移動し、たまたま居合わせた弟さんの頭に激突し、H鋼材で頭を半分えぐり取られて即死だったと言う。
そんな悲しい事故で弟さんを亡くされているのに理事長は弟さんが「仕事が楽しい、いい会社に入れた。」という言葉が忘れられなかったと言った。


いつも輻輳して仕事を追いかけていた。
一度にあれもこれも考えなければならなかった。
楽しかった思い出はあまりない。でも辛かったことは思い出さない。私の頭に残るのは濃い記憶ばかりなのである。
考える事、考えさせられる事は多かった。
今なお整理の付かない濃い記憶はいつまでも私の中から昇華していくことは無いのかも知れない。


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