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豊橋ステーションビル

小学生四年の秋から中学生三年の冬まで愛知県豊橋市に住んでいた。
豊橋駅の西口、駅の裏側に住んでいた。
でもそこは誰もが想像する場末の飲み屋街が連なるような駅裏とは違った。
少し歩けば落ち着いた住宅地、駅まで徒歩5分の便利な場所であった。
新興住宅地ではない徐々に人が住みつき広がっていったような、商住混在のあまりに住宅地らしさばかりで納まってなかったのが落ち着いた理由なのかも知れない。

それまで豊橋で買い物をしようと思ったらバスで出てこなければならず、私と兄にとっては夢のような引越しだった。
しかし、校区が違うので小学生の私たちだけで豊橋駅の向こう側の繁華街は子どもたちだけでは行ってはならない場所であることを後で知ることになった。

友達にも恵まれ、環境も良く私の人生で一番楽しかった場所かも知れない。
余談ではあるが、地元の不動産屋と話をすると今では豊橋市内の住みたい町の一番か二番の人気になっているそうである。

そして、大寒を迎えたこんな寒さで時々思い出すのが豊橋駅のステーションビルである。
今はもう無いそのビルの地下が食品売り場だった。

母は転居後すぐにまた看護師として働き始めた。
夕食の準備に毎回母は苦労していた。
時間が無い時にはステーションビルの食品売り場で買ってきたおかずが並ぶ時もあった。
何を出されても笑顔で『美味しい』と言わねばならぬ体育会系の宮島家の食卓でステーションビルで母が買ってきてくれるおかずには素直に『美味しい』と言えた兄と私だった。

あまり食べるものをねだる事はなかったが、一度母に食品売り場に連れて行ってもらった時に『お好み焼き』を買ってもらった。
関西のお好み焼きとは違う薄いメリケン粉の皮の上にキャベツを山にして豚肉を広げ、卵をのせて焼き最後に半分にたたんだヤツである。
家には無い粘度の高い美味しいソースがかかっている。
紅生姜がパラパラ、かつお節が生き物のように揺らめいていた。
いつも兄と私の分2枚だけだった。
こんな寒い時に片手にぶら下げ帰る時のお好み焼きの入ったビニールはズボンの上からもその温かさを私の足に伝えて来た。

なんでもないような思い出であるが、こんなお好み焼きの温かさが時々思い出す私の忘れることの出来ない思い出なのである。

ステーションビルは美味しい思い出ばかりではない。
屋上の臨時設営のイベント会場で浅野ゆう子にサインをもらい、握手してもらった。
思った事は口から出ず、ただ顔を赤らめていた。
私と同じ歳の浅野ゆう子も61歳である。
サインは私の部屋にある。

これから寒さは本格的になる。
季節が思い出させる事がある。
同じ季節でも毎年一様では無い、過ごしてきた六十一回のそれぞれの季節を肌が、私のカラダが覚えているようである。
通過した時間をその都度思い出す自身に驚いたり、懐かしく思ったりしている。

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