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一人で過ごす時間

一時期、家からあまり出ることが無かった。引きこもっていたわけではない。基本的に家にいて何かをしているのが好きなのである。本を読む、手紙を書く、という行為は誰に気を遣うことなく家ですることが可能な私としてはとても好ましい時間の過ごし方である。
あとは料理をする、部屋を片付ける、少しだけ猫の相手をする。そんな時間が好きなのである。一日において会話する相手は猫だけ、なんてのも全く気にならないのである。
そして、酒を飲むのも一人がいい。カウンターの隅っこに一人立つか座るかして、まわりに音楽や会話があっても無くても気にならない。一人でいることがいいのである。瓶ビール一本と熱燗が二合、アテはその日や季節の旨いものがあればいい。そして長居はしないから店にとってはいい客だと思う。気を遣わないボンヤリ流れる時間の中にいたい。接客や社内の付き合いが多かったからそんなのがいいのかも知れない。

夜だけ障害者の方とともに過ごす時間は私に多くの事を考えさせる。
自ら好んでそんなふうに生まれてきたわけではない兄の事を、そのすべての原因を自分一人だと信じ切っていた母の事を考える。
今、二人の気持ちがよくわかる。
母はほんの一度の気の迷いが我が子の人生を変えてしまった事を、そうでなければどんな人生を送っていたであろうと、どうもならぬ悔恨と哀れな夢で幾度枕を濡らしたのであろう。
なのに、兄貴は強く生きていた。考えても仕方ないと、割り切って生きていた。
そんな兄貴の覚悟をも知らぬまま、母はアルツハイマーの沼に沈み込んでしまった。

思いのほかに多い障害者とその家族たちがいる。
障害者は様々である。その障害ばかりか生まれも育ちも様々なのである。それだけが私たち健常者と呼ばれる人間と平等なのである。そして、好まずとも欠けた力や知力でこの世を渡り乗り切らなければならないのである。ならば普通と思っている私たちは力を貸してやればよい。普通に接してやればよいのだ。カウンターで横に並びそんな連中と特に話をするわけでもなく自分の空間で自分の金で自分の酒を飲めたらいいと思う。でもいいじゃないか、トイレに行く時に手を貸してやったり、落とした箸を拾ってやっても。あとはひたすら自分の酒を飲めばいい。そんな時間や空間が彼らにだってあったっていい。

私が一人部屋で過ごすような時間を兄は自室で過ごすのだろうか。そんなことは兄自身の時間と空間であり、おせっかいな話であるが気になってしまうのはやはり兄弟だからなのか。



※ヘッダーの写真は本文とはまったく関係ありません。
文章作成中に妙にこんなのが食べたくなっただけです。

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