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ハルヱの最後の秋

村の鎮守の神様の今日はめでたいお祭り日。
その頃、ハルヱは生きるを感じながら故郷山形の家業である「農」を手伝っていた。

昭和20年(1945年)第二次世界大戦は終わり、ハルヱは従軍を目指して長野県上諏訪にある現在の日本赤十字病院で看護師としての訓練を受けていた。
傷痍軍人の看護を二年間、一番歳の若かったハルヱは結核病棟を担当し、血痰が表面張力で溢れそうな痰壺の処理に毎日を明け暮れていたという。
昭和5年生まれのハルヱは歳をごまかし、13歳の時に奉職した。南方に出征している長兄に会いたい気持ち一心で試験を受けたという。しかしそれは叶うことなく終戦を迎え、長兄が帰ることはなかった。

目的を失ったハルヱは山形に帰り、5年の間家業の手伝いをしたのである。
ハルヱは3人姉妹の末娘、長女はすでに嫁ぎ、次女と日々を過ごしたのである。身体が弱い次女は手先が器用で和裁、洋裁とこなし、ハルヱは農作業の合間に次女に裁縫の手ほどきを受けながら話をするのが楽しみだった。
それは普通の女の子の会話である。長女の嫁ぎ先の姑の話で姉の幸せを知り、少女雑誌で知った中原淳一の話であり、幼馴染の若者の話であった。
揃って読書好きであった3人姉妹はその頃も3人で雑誌も小説も回し読みをしていた。ハルヱの本好きは2人の姉の影響だった。

一日の作業を終えるとハルヱはいつも次女と町の共同浴場に行った。24時間365日温泉の途切れることの無い町営の共同浴場である。
ハルヱはカラスの行水である。次女よりいつも早く出て浴場前にある長椅子で読みかけた雑誌や小説を開くのが習慣だった。そしてハルヱのおさな馴染みの太郎も湯から上がってくるのであった。互いにその時間を分かっていたのである。ハルヱはいつも恥ずかしそうに雑誌に目を落とし、太郎が一日あった事を正面に見える色の変わり始めていた葡萄棚の広がる山の緑を見つめて話すのであった。
雪国の秋は足早で、陽が落ちるのは早い、わざと長風呂をする次女を待つ間いつしか二人は裸電球の街灯に照らされていた。

「ハルヱちゃ、俺、春が来たら東京へ行くよ。叔父貴がやってる自動車工場手伝ってくれって言われてるんだ。」
「え、太郎さん、東京に行っちゃうの。」
「うん、家は兄貴が継ぐし、自分で生きていきたいんだ。」

そんな会話を次女は共同浴場の玄関で立ち聞きしていた。
翌年、秋になったがハルヱの背中を押して東京に旅立たせたのはその姉だった。
稲刈りは終わり、天日干しされる稲束が広がる田を前にハルヱは姉と二人でその金色を言葉なくずっと見つめていた。
それがハルヱの山形での最後の秋だったのである。


これは私の母の青春の時間を想像して書いたものです。
山形に帰っての5年間は私にはまったく未知の世界です。15歳から20歳まで花の盛りを生きた母にもこんな話があってもいいんじゃないかと想像しました。障害ある息子のためだけに生きてきたんじゃないと思いたく、秋の夕日を眺めながら思い浮かべました。




※ヘッダー画像は以前書いた記事を読んでくれたせきぞう、さんがあっという間に描き上げてくれたデジタル画像です。


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