見出し画像

猫に教えられたなんでもないような話

明け方に近い深夜、愛猫ブウニャンに起こされる。

私が立つとブウニャンもベッドを降りる。
ああ、腹が減ってるんだなと思い一階で新しい餌をやる。
静かにカリカリを食む間にトイレに行く。
出て来ると新しく替えた水をなめている。
しばらく座ってその様子を見ていると、満足したのか私の脛をペロリとひとなめするとゆっくり二階に上がっていった。
まるで「先に行くわよ」ってな後ろ姿であった。

眼が冴え、そのまま起きる。

これまでたくさんの生き物たちと共に生活をして来た。
田舎の生活だから出来たことであろう。
カブトムシ、クワガタムシ、カナブン、蝉、蝶々、バッタ、コオロギ、鈴虫、メダカ、金魚、鯉、ジュウシマツ、インコ、鳩、チャボ、猫、犬、そして人間。

彼ら彼女らと共に生活するには、そのスタートを作った私に責任が発生する。
食べるもの、きれいな水の用意。
ゆっくり安心して休息できる寝床の用意。
いつも清潔な排泄場所の用意。

この生きるための三原則がどの生き物にも共通であることに気が付いた。

そのための方法の多くは両親に教えてもらったことであろう。
でもその本質は生まれる前から私に備わっていた何かのようにも思える。

その何かは自身を大切にすると言うことではないだろうか。
両親、兄の介護・看病では自身のことは二の次で本人達のためにやってきたと思っていたが、それは勘違いだったということである。

それをしなければ私は生きていけぬ状況にあった。
しかし、自身が生きるために考え、時間を割き、動き、そして解決に結びつけて来たならば、それは自身のためにやってきたということである。

こんなことは誰もが気付いていることであって、今頃気が付く私がこれまでボッとして生きてきただけかも知れない。
恨み辛みが介護・看病に無かったなどとは言わない。
自身の体力、生命、欲望まで奪われ費やしてきた時間は戻ることは無い。
それを分かってやって来たのは何のことは無い、自分自身のためだったのである。

年齢なりにボケつつあるブウニャンに夜な夜な起こされ寝不足の続く毎日であるが、最後にそんなことを教えてくれているのかも知れない。
ブウニャンはトラに続く私の第二のニャンコ先生なのかも知れない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?