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包丁を研ぎ思い出す

九月晦日つごもり、なんとなく包丁を研いだ。
いつもなんとなく、そろそろと思い砥石に包丁の刃をあてる。
包丁研ぎが好きなのである。
研ぎあがった包丁でトマトを切る、キャベツを刻む、そんな時間が快感なのである。

子どもの頃から自分で「肥後守」(ひごのかみ)を研いでいた。今のお若い方は肥後守はご存じないであろう。金属板でプレス加工した簡易なグリップのある折り畳みナイフである。私たちの子どもの頃、昭和40年代にはまだそんなナイフをポケットに入れて歩いていてもとがめられることはなかったのである。私は鉛筆はいまだにこの肥後守を使って削っている。削り方は父が丁寧に教えてくれた。鉛筆削り器を使うよりも鉛筆は減らず、一番の書きやすさにも調整できた。

いつからか母の使う包丁も私が研ぐようになっていた。
いつも勘を頼りにして包丁の刃を傾けて砥石にあてる。
少量の水を流しながら浮き出て来る刃の金属粉が流水に浮くのを眺めるのが好きであった。
ここでプロは刃を親指の爪にあてて、その研ぎ具合をみるが、私はそれだけは怖くてできない。
高校を卒業して大学に行くまでの二年間、魚市場にいた時である。
働いていた仲買の使用人だったタケさんは与論島の出身だった。琉球拳法の使い手だった。ついでにもう一人の若い使用人の木村さんは日本拳法の師範だった。
タケさんはチェーンソーで四つ割りにしたカンカンに凍ったマグロの背骨やら背びれなどをなたで削り落としていた。マグロの油で鉈の切れが落ちるのであろう、毎日仕事が終わると鉈を研いでいた。そして、研ぎ上げた刃を自身の親指の爪に載せるのであった。それが私には怖く、見てはならないものを見たような気になったのである。鉈の重さをそのまま爪にかけることはないだろうが、何かの拍子でタケさんの親指の先が落ちる日が来るんじゃないかと思ったものである。

でもタケさんの指の落ちる日は来なかったようだ。
大学入学が決まって、豊橋のタケさんのアパートの近くの小料理屋に呼んでもらった。テレビドラマで見るようなカウンターだけの店であった。着物姿の女将さんは優しく、タケさんと仲が良いようだった。それまでもいろんな店で飲ませてもらったが、その店は最初で最後であった。
大学に入学して私は合気道に明け暮れ、社会人になって仕事に明け暮れて気が付けばタケさんと別れて10年も経って、その店に一人で行ったことがある。女将さんは若い女性に代わっており、聞けば体調を崩して急逝したという。タケさんのことも知っていて、女将さんの後を追うように体調を崩して与論島に帰ったと言う。

それきりの話である。タケさんを訪ねて与論島まで行ってみたいとも思ったが、そうもいかない年齢に私はなっていた。なんの恩返しをすることもなく別れたタケさんを包丁を研ぐたびに思い出している。いろんなことをタケさんに教えてもらった。そして、不義理ということもタケさんは私に教えてくれたんじゃないかと今思うのである。


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