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筆記具とわたし(その3)

私が社会人になった1985年、昭和60年コピー機ってものがまだ一般的ではありませんでした。
まだカーボン紙を用紙の間に挟んでボールペンで力を込めて書く作業や、『青焼き』なんて言う元の書類と感光紙を合わせて青色の特殊な光で感光させて写し取らせる夏場にその作業を仰せつかると嫌な汗をかく、わりと場所を取る機械がありました。

でも、各事務所にコピー機が入って来たのは、そのあと早かったように記憶しています。
そうすると、それまでは書き損じると最初から書き直すことのあった書類を書き直す必要が無くなりました。

シャープペンシルで書いたものをコピーして正式の書類とすることが出来るようになりました。
この時のシャープペンシルは0.5mmが最適だったので、この頃はもっぱら0.5mm男となっていました。

最初に配属された現場の所長は私より二回り歳上、そこを最後の現場とすると言っていました。
(そのあとは営業所、支店に入っての現場の統率です、優秀な方でした。)
工業高校卒業のたたき上げの優秀な現場マンでした。
この方が入社して初めて先輩に餃子を食べさせてもらい、「世の中にこんなに美味いものがあったのか」と唸り、初任給をもらってしばらく毎晩餃子を食べていたという尊敬する先輩です。

この所長が使っていたのがぺんてるのシャープペンシル、ケリーでした。
万年筆のようなキャップ式になっているシャープペンシルでいつも胸にさしてました。
会議の時も真ん中に座り、このケリーを手にしながら発注者に心ある嘘のない受け答えをし、私と予算の打ち合わせをする時にもケリーで便箋に書きながら原価の仕組みを説明してくれました。

その所長のカッコ良さに憧れ、あわせてケリーにも憧れました。
でも、100円のシャープしか使っていなかった当時の私には高嶺の花でした。

ある晩、終電を逃し、一人現場事務所に残って仕事をしていると事務所の電話が鳴りました。
協力会社の親方です。
「近鉄新田辺の踏切で所長が酔っ払って寝てるからこれから連れてく。」と。
時々酔うとだらしなくなってしまうことのある所長でした。
それくらいストレスのある仕事だったと思います。

事務所で所長と朝を迎え、毎回のことで慣れている所長と熱いインスタントコーヒーを飲んだのを憶えています。
そして仕事が始まると、所長室に私は呼ばれました。
何を言われるのかと思えば、「シャーペンをどこかに落としたから文房具屋に言って同じのを頼んでくれ。」だったのです。
踏切あたりに転がっているような気もしたのですが、「二本注文しますよ。」とすかさず答えました。
怪訝な顔を一瞬した所長でしたが、すぐに笑顔で「わかった、わかった、お前に任す。」と言ってくれました。

所長のは茶色、私のは緑。
それがこの写真の『ぺんてるケリー』です。
会社の経費で買ってもらった私の嗜好品です。
今の市中品とは若干デザインが違います。

そんな所長は2年前に他界しています。
会社を辞めた私を心配し、よく連絡をくれました。
70歳を過ぎて年末の郵便局の年賀状の仕分けのアルバイトで重宝されて、毎年郵便局から連絡が来る、と嬉しそうに話ししてくれました。
最期は認知症で施設で亡くなりました。

たった一本のシャープペンシルですが、私の人生の一部のようでもあります。
たった一本のシャープペンシルですが、見るたびに初心を思い起こさてくれる私の人生の灯台のような存在です。

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