ひととの付き合いのふしぎを考える
季節のせいか、ここ最近ずっと昔のことばかり思い出していた。
まだ誰かが私を迎えに来ているわけではない。
最近、久しぶりに京都に行ったこともあり、まだゼネコン時代の30代、京都で夜寝ることも惜しみ仕事している時代を思い出した。
その時、私は大阪支店営業部にいた。
いつものように気まぐれに会社は発注者の業種別に担当替えをした。
生産施設グループ、教育施設グループのようにだ。
私は商業施設グループに入れられて、いつも会社にいるのが好きな部長の下についた。
スーパーマーケットが相手だった。
私は会社のメインバンクの息がかりの大阪で一番大きなスーパーと、以前から付き合いだけのあった京都府亀岡のスーパーがメインの担当で、あとは初めてのスーパーに飛び込んだ。
飛び込みで簡単に人間関係が作れるものではない。
なかなか営業先の増えないまま毎日を送っていた。
大阪のスーパーと亀岡のスーパーの開発部長からは相談を受けて見積もりをする事もあったが、その頃のスーパーゼネコンの価格とは逆立ちしてもかなわない乖離があり、私が見積書を持っていくたびに二人の開発部長はため息をついていた。
しかし、私がゼネコンを辞めたあとも、ずっとこの二人とは付き合いが続いた。
大阪の開発部長はその後、自身の出身の滋賀県北部の市の副市長をされた。
亀岡の開発部長は大学でゴムの研究をしていたという変わり種の方であった。
二人とも仕事の押しは強く、業界では有名な人のようだった。
私が飲み屋を始めた時、大阪の開発部長をされていた方は何度も足を運んでくれた。
亀岡の開発部長も一度来てくれた。
そこで二人は初めて顔を合わせたのだが、そのあとの付き合いはどうされたのかは聞いてない。
その日は亀岡の部長は店でたまたま置いていた『魔王』の一升瓶を半分ほど一人で飲んでくれた。
途中まで滋賀に帰る部長が送ってくれたが、伏見の自宅まで帰れたのかいまだに気になる。
よく考えてみれば二人と大きな仕事はしてない。
でもゼネコンを辞めた後もずっと相談にのってもらい、ずっと相談がきた。
たぶんこれからも付き合いは続くのだと思う。
契約となる仕事もしてないのに不思議な気もするが、人間付き合いが営業の大きな仕事だという事だろう。
ゼネコン時代にガムシャラに走り続けて培った、人との関係はいつまでも私の財産と言えるかも知れない。
こんな感じで仕事をしたこともないのにその頃から付き合いの続く取引先の方がまだ片手の数ほどいる。
「出てこい」と夜電話が入ればキタでもミナミにでも向かうだろう。
不思議ではあるがずっと『仕事』という名の人付き合いをしていたようである。
お二人とはそれなりの事件が出会いの時にあった、話したら長くなるからまたの機会の話としたい。
そして、たぶん私のこの先の人生の物語のどこかに登場していただけるお二人だと思っている。
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