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不思議な出来事

合気道を大学で始めて今なお細々と稽古を続けている。
社会人となり、仕事があり、子を育て、両親を看取り合気道どころでない時間の方が多かったかも知れない。
しかし、今になって考えればそれも合気道だったのかも知れない。
合気道を含め武道は喧嘩の道具ではなく、人を傷つけ殺すことが本来の目的ではなく、自分を含め皆が生きることと考えることが出来るようになった。

人に合気道の技術と心を伝えなければならないと思うようになったのはずいぶん最近である。それまでは勝手気ままに好きなところで稽古をするだけであった。両親、兄の看病、介護、転職などすべてがタイミングだったんだと今は思えるようになった。少しでもそのタイミングがずれていれば人を教えることは無かっただろうと思う。

1年半前に引っ越ししてまだ片付かない段ボール箱からはみ出した新聞に向かって愛猫ブーニャンが鳴いていた。見ると私の記憶にまったく無い古い『合気道新聞』だった。2008年(平成20年)のものであり、世界における合気道の総本山の合気会がその発行元である。そしてその編集人に懐かしい方の名前があった。

大学合気道部で稽古しながら私たちは新宿若松町にある本部道場に通っていた。日曜日や夜の一般の稽古人の多木い時間には遠慮し、朝8時の稽古に行くことが多かった。月水木金土で行っていた。よくこの時間に顔を合わせる方がこの編集人だった。夏場のイメージが強い、白の開襟シャツ、腰に手拭いをぶら下げて下駄を履き自転車でいつもやって来た。よく一緒に稽古し、つかまると一時間みっちり絞られた。とても痛い合気道だった。空手も、柳生の剣も修めている方だった。(新聞社にお勤めされ、後年同列テレビ局の社長も務め、年末大型時代劇ドラマをわがままで作らせていた)

まあまあ、顔見知りになったその方にある日「スピークイングリッシュ?」と稽古中に聞かれ「ノー、オンリージャパニーズ」と答えた。それが入社試験だとそのあとに言われた。「うちの会社の合気道部をやってってくれないか」と乞われたのである。

一言で言ってしまえばおおらかな時代だったのである。
すでにゼネコン入社が決まっており、お断りしてしまい、新聞社の入社はならなかったのである。
しかし、そのあとも可愛がってもらい、大阪に来ていた私のあとに、その方は大阪代表として来阪した。連絡をもらい酒を飲みに連れて行ってもらったが、その頃は仕事は多忙を極め、合気道どころではなったようである。
そして、そのうち東京に帰っていかれ、私はゼネコン営業の沼にどんどん沈み込んで行った。

記憶をたどり、ハッと思い、ウィキをのぞくとやっぱりこの合気道新聞発行の年、しかも同月末に他界されていた。そして、コラムに寄稿されていた。たぶん最後の寄稿だったろう。

健康な人は健康であることの幸せを知らないでいる。いったん病気になれば常人に勝る勇気、気力、忍耐をもって闘わなければならない。武道を学ぶことはそのための格好の手段であるとつくづく思う。(一部抜粋)

不治の病に冒されながらも前向きなその方がいた。まだまだやりたい事、やり残した事があっただろう。
享年74歳、人は必ず死ぬ。
私はもっといろんな話を聞いておきたかった。

成就を遂げることの出来ない出会いが人の縁と思う時がある。
しかし、それは必ず何かを残してくれる。
そんな何かが今ある私の一部であるように思うのである。

一期一会なんて言葉がしっくりくる年齢になって来た。
あと一回りちょっとでその方と同じ年齢になる。
この先、悔いを残さず一日一日を大切にして生き抜きたいものである。

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