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流れ着いた大阪でかんがえた

私の学生時代のことである。
四十年も前のこと、令和、平成を飛び越えて昭和のことである。
大学生となった私は空手を始めるつもりで上京していたが、気のいい先輩の誘いにのって一人前500円のにぎり寿司を二人前とビール1本をごちそうになった次の日から合気道部員になっていた。
江古田の『金鶴寿司』という回転すしより安い寿司屋での出来事だった。

大学二年になってから、合気道本部道場に半強制的に通わねばならなかった。
当時の学生は稽古料は払わなくともよかった。
道主植芝吉祥丸先生は合気道の普及はまず学生達からと、その頃からさらに二十年ほど遡った時期の大学での合気道部設立に尽力されたと聞いている。手弁当で稽古や合宿にまで参加してくれたそうである。
先を見通す力をお持ちの聡明な方であった。
稽古料を取られなかったのはそんな名残りもあったのかも知れない。
その代わりなのかは分からないが、私たちは毎年の全国合気道演武大会の畳引きや当日の警備などのお手伝いに引っ張り出されていた。

毎日の稽古で当時の指導員の先生方の稽古相手にされた。
仕方なく行く稽古が恐ろしかった。
同期生とともに毎回稽古後のお互いの無事を確かめ合って大学へ向かったものである。
幹部交代してから、市橋紀彦先生との稽古後のコーヒータイムが私たちの日常に組み込まれた。
報告があり、相談があり合気道の事ばかりでなく私たちの人生相談に乗ってもらうこともあった。
そして先生によく叱られた。
今考えれば社会に出て行く私たちに実の親のように真剣になって頂いていたのだろうと思う。
社会人となり、恩返しをする事も無く先生は先立たれた。

今、流れ着いた大阪で稽古を続け考えていた。
我々は学生の合気道部員であった。
四年間で合気道と離れてしまう人間がほとんどである。
なのにあれまで情熱を注ぎ合気道のみならず私たちの生き方にまで関わってくれたのはなぜなのか。

たぶん、合気道が好きで仕方がなかったのだろう。
四年間だけでもその合気道に関わる私たちを可愛いと思ってくれたのであろう。

先生は歳を取られ、毎年の入れ替わる学生たちとの年齢は離れていった。
当たり前の事ではあるが、だんだん親子ほどの年齢差になっていき稽古後のコーヒーの味も変わっていったのではないだろうか。

それを感じる年齢となり、今なお合気道に関われることを幸せに思う。
亡くなった市橋先生の年齢を越えた今、先生とまたあの新宿抜弁天にあった『小島屋』や『タバサ』でコーヒーを飲んでみたい。
グダグダと取り留めのない話しをしてそのまま歌舞伎町の『三汁一菜』へ流れ込み時間を忘れて朝まで痛飲したい。

夢でいい、もしも叶うならばの私の願いである。

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