見出し画像

梅雨寒

若い頃には雨に濡れることなどなんとも思わなかった。
カッパも着ずに働く男たちが格好良いとさえ思っていた。
当時の私は人生の混迷期の真っただ中におり、中学・高校時代の友人には誰とも会わずに一人生きていく道を模索していた。
高校を卒業し、仕事をしていないのが嫌であった。食うためではなく自身の見栄のために仕事を探した。
見つけた魚市場の仲買は温かな一家で家内制手工業のような経営をしており、ひねくれた私を家族のように迎え入れてくれた。
働くならば肉体労働と決めていた私だったが魚市場での仕事は辛かった。
しかしその分実入りはよかった。
まだ二十歳を前にした私は不相応な金をいつもズボンのポケットに突っ込み、高いだけが取り柄の難解な本を買い込み大人の顔をして飲み屋の出入りもしていた。

魚市場には悪い仲間がたくさんいた。
一番年下の私を面白がって誰もが誘ってくれた。居酒屋も寿司屋も割烹も皆仕事の取引先だった。しこたま飲んだ後にはバーやラウンジにも連れて行ってくれた。
毎晩夜遅くまで遊び、酒を飲み次の日は朝早くから仕事をした。どんなに遅くまで遊んでいようと必ず仕事に出ていく私に母は何も言わなかった。
そしてそんな毎日に終わりを告げる日が来る。
隣の仲買の私より二つ年上の先輩に誘われた。好きではないパチンコ屋に連れていかれ、日は暮れ先輩の自動車で市内の繁華街まで行った。
居酒屋で私は先輩に「もうこんな生活には縁を切る」と宣言した。そして酔いに巻かれた私たちは殴り合いのけんかをした。
途中から記憶の無い私は白々と明らむ駐車場で目が覚めた。小雨で濡れた私の体は冷え切っていた。

梅雨寒の朝だった。

それからしばらくして私は仕事をやめた。
少しだけ勉強をして東京に行き大学生となった。魚市場をやめた時に先輩から「お前が羨ましい」と言われた。
今でも梅雨が来ると時々その先輩を思い出す。
会いたくはないが今頃何をやってるのかと、その先輩を思い出す。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?