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昼酒を考える

先週、以前お世話になった方と難波で打ち合わせがあった。
時間は昼前、ビールを飲みながらの話となった。
不思議なもので、長く働いていた建設業界には昼酒を許す雰囲気があった。
朝から飲むのになんの支障も無かった。
体質では合った業界ではあるが続けていたら、今頃成人病のオンパレードだったかも知れない。
なんでもほどほどが一番ということなのだろう。

六十を過ぎたのだが、いまだに年上との付き合いが多い。
可愛がられていると言えばいいように聞こえるが、もう六十二の身でどんなものだろうと考えてしまう。
たぶん、私の頼りなさに起因していることだろうと思っている。

まだ現役のサラリーマンの頃からそんな方々と付き合う時は酒を飲みながらが多かった。
「ちょっといいか?」と電話が来る。
LINEやメールではなく、電話で連絡が来る。
携帯電話ではなく、会社にかかってくることもあった。
「はい、わかりました、これから向かいます。」と答えればそれを聞いていた会社の女の子はやれやれまたか、といった顔をしていた。

そして、時間はまだ昼前、大阪でもどこに行っても朝から飲めるわけではない。
大阪に偏見を持った方がいるかも知れないからここで弁明しておくが、大阪人は真面目である。
皆朝から仕事をしている。(自分で当たり前のことを書いているなぁ、と思っている、、)
しかしながら考え方を変えてみれば、中には朝まで仕事をしている人間もいるわけだから、朝から飲み屋が開いていてもおかしくはないのである。

ただ私の付き合っている方々(今も付き合っている方々)はとうにリタイアされた方であり、日常の退屈さと、私の付き合いの良さから私から業界の動きや私の近況を聞きたかったのである。
そんな前向きの方々だったからお聞きする限りでは身体は健康で、頭はスッキリした方々だった。
よく仕事でのアドバイスをしてくれ、人の紹介もしてくれた。
今は人生の相談役と言ったところである。

午前中から飲ませてくれる店は限られているから、自ずといつも行く店は決まってくる。
京橋では朝から開店している立ち飲み屋もあり、「まだ足は大丈夫だ」と言われそんな店に行くこともあった。
モーニングサービス(中生と日替わり一品で500円)がワンコインであった。
朝から立ち飲み屋で割と真面目な話をするのである。

そんな先輩たちはたいてい、自身も午後の予定を持っている。

酒の是非は議論にもなることであるが、私は必要なものだと思っている。
依存したり、溺れたりしなければいいのである。
これは酒に限った事ではないと思う。
何事も、「過ぎたるは、なお及ばざるが如し」ということであろう。

私の酒は呼び水であって、そこに沈み行く沼ではない。
たぶん私は酒が無くても生きて行ける。
会話を進ませたり、一人での考え事を進ませるのに酒が助けてくれるのである。
しかし、年に何度かは沼で溺れることもある。
そこにはいつも反省があり、いつも学びがあると勝手にいいものと解釈している。
これを『酒飲みの自己弁護』と言うのだろう。
そして、こればかりはいつまでも成長しないような気がしているのである。

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