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トラの『耳ぽっち』 第一夜

最近は無くなったが、以前はよく酔っ払って帰って来た。
皆が寝てるから私が出迎えに出てやると時々私を枕にしてそのまま玄関で寝てしまった。
仕方がないからいつもほんの少しだけ我慢してやった。

私はトラ、この男の両親に飼ってもらってたんだが寿命には勝てず私たちを残して虹の橋を渡っていってしまった。
あやうく野良猫になるところをこの男に拾ってもらったんだ。
だから恩義がある。
いつも飯も水も新しくしてくれるし、トイレもきれいだ。
寝る場所も何ヵ所も作ってくれている。
だからいつでも枕代わりくらいなってやるさ。

なんの不安もなく生きる毎日、何も考える必要はないのかもしれないが、最近これでいいのかと思ってしまうことがある。
甘んじてただ生きることの是非である。
私は何のためにこの世に生を置き続けるのかである。
おかしな猫と思ってくれていい。
これが私である。
そして決めたのだ。
この先この男の生きるがためにもがき苦しんできたこと、見聞きしてきたことを、寝ながら枕替わりの私が聞いて来たすべてをお話していきたいと、、

私はトラ、この男のICレコーダーのような猫である。
私の耳だけしか知らない、『耳ぽっち』の話である。


トラの『耳ぽっち』 第一夜


人の世は難解である。
生きるため、食べるために働くのは分かる。
しかし、必要以上に働くのはなぜか、将来ってものに備えるようだが、その働き方にいろいろ悩まされたようである。
この男は真面目過ぎるのか、世の中の裏を見ても染まろうとしない、『朱に交わって赤となる』に準じようとしないのである。
ならば嫌われるであろう。
ゼネコン時代、若手ナンバーワンの営業課長の下に配属され勉強の機会を持った。
真面目な課長だと初めの頃は私も話を聞いていて思っていた。
大手スーパーの担当、そのスーパーの吊るしのスーツを着て、平気で上場企業の営業に行き相手の部長たちをタジタジとさせるほど弁の立つ俊才だったようだ。
毎晩、北新地の場末のスナックに連れて行ってもらいグダグダに酔っ払って帰って来た。
「あんな営業はいつまでたっても出来そうにない」エラく落ち込んでいたものだ。
そして、「俺を自腹で飲みに連れてくなら、腕時計のバンドくらい換えたらいい」とも言ってた。
営業課長は擦り切れた革バンドの古い腕時計をしてたそうな。
地方の中くらいの都市の駅前でそのスーパーになり代わって再開発を成功させた。
大型商業施設の工事がついて来た。
その頃を境にしてその課長の生活は変わったそうな。
腕時計は舶来物に変わり、スーツも仕立てに変わり、北新地の目抜きのクラブに連れて行ってもらうようになったと聞いた。
私の飼い主の男のすごいのは感情の機微を目と耳で察知することである。
課長はそこの店の若い女の子を駅前のマンションに住ませるようになっていた。
どこからそんな金が湧いてくるのか私にはわからない。
その後、課長とは仕事上の対立をわざと作り、外されたと言っていた。
染まるのがいやだとも言っていた。

人の世は難しい。
私は十分に幸せな生活をこの男に送らせてもらっている。
でも人間の男、一般的な男にとっての幸せって何なんだろうか。
これが難解な人の世なのかも知れない。

私は猫に生まれてきてよかった。



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