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とうがらしの木

この時期、愛知の実家の近くでは露地物の唐辛子の木が赤い実をつけ、そばを通り過ぎる私の目を引いた。
これから寒く暗い冬に向かう、その冬を越えるために精一杯栄養と陽の光をため込んだのが、あの赤なのであろう。

ゼネコンでの営業マン時代、京都駅近くの韓国人の方々がたくさん住むエリアの料理屋に発注者である役所の方によく連れていってもらった。
どの店でも元気なお母さんが作る辛いが美味い韓国料理が楽しみだった。
だから寒く暗い冬に向かう真っ赤になった唐辛子にはもの悲しさを感じることはない。

昨年、母ハルヱが他界した。
昭和5年生まれのハルヱが終戦前に看護師を目指して諏訪湖のほとりにある上諏訪日赤病院に奉職したのは南方に出征した兄に会いたい一心だったと言っていた。
まだ15歳にもなっていなかったのである。
優しくて大らかな性格のハルヱは看護師になるために生まれてきたような人であった。

私が15歳の時に愛知県豊川市に家を建てて移り住んだ。
近くに朝鮮人の方の住む集落があった。
ある日そこに住む朝鮮人のお婆さんが母が庭に作っていたトウモロコシのヒゲを分けてくれないか、とやって来た。
母は優しく対応してヒゲと丸々太ったトウモロコシを渡していた。
お婆さんは腎臓が悪く、ヒゲを煎じて薬にするのだと言っていた。

それからお婆さんとハルヱの交流は始まった。
翌日には唐辛子で真っ赤に染まった白菜のキムチをビニール袋に一杯詰め込んでお婆さんさんは持って来てくれた。
辛いが旨いキムチだった。
半年もするとお婆さんは見違えるほど顔色が良くなり、元気になっていた。
コンビニなんてものは日本にまだ出現しておらず、トウモロコシのヒゲ茶なんてものをまだ見たことのない頃の話である。

私はそれから大学生となり東京へ行った。
ハルヱとお婆さんの付き合いはずっと続いていたようで、年に一度ほど私が実家に帰ると冷蔵庫にいつも真っ赤なキムチが入っていた。
お婆さんは百歳過ぎまで生きたと聞いた。

人の記憶と頭の中は不思議なものである。
料理の仕度を考える最中に鷹の爪が切れているのを思い出し、なぜか朝鮮人のお婆さんの顔が浮かんだのだ。
私の記憶再生装置はこんなことで動き出すのである。
ひょっとしたら母ハルヱがいたずらで私の記憶の引き出しを引いたのかも知れない。

そして今思い出した。
ある日の夕暮れに私はそのお婆さんに連れていかれ、ご自宅まで行ったことがあった。
晩飯の仕度の匂いが立ち込めるご自宅の庭では唐辛子が栽培されており、緑の葉の中から真っ赤で元気な唐辛子がわさわさと突き出ていた。
そして、それをお婆さんの黒く日に焼け曲がったしわだらけの両手の伸びた爪の替わりに付けたら似合うのにな、と変なことを考えていたことを思い出した。

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