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生きるためにやって来た仕事(そこで出会った人たち その4)

実はこの話、私がnoteにやって来てまだ間もない昨年2月に記事といたしました。
その時おひたちさんきゃらをさん(あいうえお順)から初めてオススメをもらい、大変嬉しかったことを記憶しています。
仕事師には分かってもらえるなぁ、と一人悦に入りました。

モーレツな上司の営業部長は大阪支店のみならず、会社を代表する建築作品をいくつも世に残す営業をやっています。
それをすべて自分一人の力だと人に知らしめたい、そんな薄っぺらなところがあったのです。
それをせずとも、言わなくともその部長がいなければ形にならなかったことは周知のことでありながら、自身でその評価を落としてしまう稀有な性格の持ち主でした。

しかしそれは付き合ううちにいろんな原因からだと分かってきました。
貧しい農家で父親がいなく、苦労して育ったと本人から聞きました。
その時、聞いて驚きましたが、私の父と同郷でした。
長野県の南部、父の育った村も、その隣村の部長の育った土地も山あいのそれこそ猫の額ほどの耕作地で生きて行かねばならない寒村だったのです。
どういう経緯で入社されたのかまでは知りませんが、お兄さんも技術屋として他支店で働いていることを他から聞きました。
その支店の同期に聞くと仕事は出来るが、仕事で得たノウハウを下に伝えることをしない、自分がいなければ現場が回らない状況を作る兄弟そろって似た性格の社員だったそうです。
こんな言い方は良くないのですが、育った環境が影響もしていたようです。
そして、夜間の高校しか卒業していないこともコンプレックスとしてあったようです。
私のいたゼネコンはそういうことはあまり頓着しないおおらかな会社で、工業高校卒業の所長が数十億、百億を超える工事の責任者をしていました。
営業では誰にも負けたくなく、ケチを付けられたくなかったのでしょう。

営業の世界はゼロか100、過程や家庭はどうでもいいのです。
成績がすべての世界です。
その象徴がこの部長でした。

だから仕事はとことんでした。
24時間、365日が身に付いたのはこの部長のおかげです。
徹底的に下働きばかり、表には出ることのない役ばかりさせられました。
各発注のキーマンへの付け届けの手配から配達、それも電話一本では終わりません。
会社の規定で四季折々の付け届けは決まっていました。
筍、松茸、年末のおせちなどです。

会社には内緒でそれ以外でもずいぶん物を運びました。
岐阜県長良川まで朝一の新幹線で天然のアユを買いに行き、事前に北摂のお宅に連絡を入れておき夕食の仕度に間に合うように届けました。
その時、お手伝いさんと思って渡した相手が発注者の奥様で、帰ってからとんでもなく叱られました。

こんな性格の上司でした。
どこからその情報を仕入れるのか、それだけは最後まで教えてもらえませんでしたが、水面下の大きな情報をつかんで来ました。

この写真もそんな仕事の一つです。
ある学校法人の資料館を北摂に建設しました。
その理事長が織田信長の末裔とのことで安土城を模した資料館を建設しました。
一般のゼネコンで城郭の設計などすることはありません。
一匹狼の城郭専門の設計師を見つけ出し、学校の職員にして設計をさせました。
ピカイチの城郭建築をするために日本で一番歴史の古い寺社専門のゼネコンとJV(共同企業体)を結成する仕組みを作りました。
資料館正面の城壁に貼り付けるための大石を切り出す段取りのためにこの一年前には岡山県犬島にまで渡りました。
この巨岩は大阪南港まで船で運ばれました。
その時の船積みの写真が表題の写真です。
17m、300tの巨石は南港でスライスし、それを割らぬように北摂までの運搬が一筋縄ではいかぬものでした。
会社の建設省OBからこそっと聞いてもらうと国道事務所の答えは「ノー」でした。
計画の運行ルートの橋の耐力がもたないから通行させないとのことでした。
警察OBと相談し、X デーを定めて無理やり決行しました。
最後は神頼みでした。
私が前日マイカーで、各橋、各主要交差点に塩を撒き、手を合わせてきたのです。

当日深夜、非情の雨に打たれながらも巨石の運搬は事なきを得、無事完了しました。
大阪城の蛸石に匹敵する巨石は今も資料館の城壁に貼り付いています。

そんな、誰もがやれないことをやって来た部長の退職後は寂しいものでした。
ガンで入院し、見舞いに行くと奥さん、息子さん達からは喜ばれ、この先も付き合いしてくれと頭を下げられましたが、縁を切りました。

私のごくごく親しい先輩が自ら命を絶たれたのです。
この先輩が鬱となり最後は会社に来れなくなったのはこの上司のせいだったのです。
「よく宮さん、あの男とつきあえるなぁ、」と私の仕事の話を聞いてくれた先輩でした。
実は寂しがり屋であるのにもかかわらず、多くの社員を踏み台にしてそれをなんとも思わない残酷さを持ち合わせた部長でした。

生きるために金は必要です。
サラリーの額はサラリーマンにとって成績表のようなものです。
それは理解しますが、どこまでやるか、最後は性格のようにも思えるのですが、それを最後の最後まで表に出さない狡猾な男が案外多いことを会社が傾きかけた時に知りました。

それと考えあわせたらこの部長は分かり易い人間らしい男なのですが。
私もわりと分かり易い人間らしい男です。
だから、許すことは出来なかったのです。
悲しいサラリーマン時代の思い出です。
サラリーマン時代、たくさんのいろんな人と出会いました。
生きるために仕事をやって来ました。




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