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栗に聞いてみたい話

毎週水曜日に行っている京都大原野の放置竹林整備NPOの事務所前に栗の木がある。
栗の実がぶら下がる姿を目にするこの時期にいつも思い出す事がある。

ゼネコン時代の話である。それまで時間に遅れるなんてことはなかった 。
なのに京都北部の社会福祉法人での打ち合わせに遅刻してしまった。

理由はあった。京都駅山陰線ホームで電車が入って来るのを待っていると、近くのベンチに座る老夫婦の様子がおかしかった。ご主人が腹痛を訴えているようで奥さんがうろたえていた。これは見過ごすわけにはいかないと「ちょっと待って下さいね」と声をかけて、JRの職員を探したのである。見つけた職員に引き継いだが、快速電車は出た後だった。

それで遅刻したのである。腹を括り最寄駅からとぼとぼ歩くといつもは気付かなかったのだが、その施設の前には大きな栗の木があったのだ。たわわと下がるイガグリは手を伸ばせば届きそうだった。しかしさすがに素手の手を出す勇気の出ない大きなイガだったのである。

そこで考えたのである。 自然界の中でこのイガをものともせずに熊は冬ごもり前の栄養補給にこの栄養満点の栗を腹一杯食うのであろう。でも彼等、彼女等は自分の手の届かない栗はそのままにしておくだろう。そして残ったイガは弾けて落ちた栗は春に目を出すのだろう。

でも、ここで不思議が登場する。果物の種子ならば鳥たちについばまれて、遠く離れた場所に芽を吹くことが出来るが、大きな種である栗はどうなんだろう?熊が咀嚼せずに丸呑みしたりするんだろうか?

どうやって自然界での栗は自身の生息地を広げるのだろう。それとも、ジッとしてそこから動かないのだろうか。どうやってそこまでやって来たのだろう。
桃栗三年柿八年と言う、栗の実に気付き、それが栗の木であると知っても、そこにその栗の木が生えるためのドラマは三年前の事である。

父の実家の裏山にあった山栗の木を思い出した。あたりに栗の木は無く、そこにだけ二、三本立っていた。あの小さめの山栗の実ならば間違って猿でも丸呑み出来るかも知れない。そして移動中に消化不良を起こしてお腹が痛くなって猿が小休止した場所だったのかも知れない。

遅刻をし、大事な打ち合わせが始まっているのにしばらくそんな事を考えていたのである。この時期栗の木を見てこんな事を考えているのは私だけなのであろうか。秋の夜長に考えだしたら眠れなくなってしまう。
栗さんに一度その真実を聞いてみたいものである。
愛猫ブウニャンとの会話より難しいかも知れない。

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