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生きるためにやって来た仕事のはなし

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なかなか理想を仕事とすることは難しいもの、食べるため、生きるためにしてきた私のサラリーマン人生です
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#京都

ほたるのはなし

季節外れのはなしで申し訳ない。 暑い暑い夏の夜に飛び交う『蛍』のはなしである。 note の『傘わっしょい』さんの短歌が好きで、毎晩一首づつ読ませてもらっている。 その中にある昨年末の短歌が私の記憶の引き出しに手を掛けた。 短歌 壁ホタル 人感センサーライト センサーの狂ひし蛍のやうにしてわれはありなむたれからもひとり の『狂ひし蛍のやうにして』とセンサーを蛍に比喩されているのだが、たった一度だけのこと、それも生まれて初めてたくさんのホタルの群れに包まれたことを思い出

私の人生の軌跡(ゼネコン営業マン編) 『S』という事務課長の話

それは1本の電話から始まった。 着工のもう決まっていた有料老人ホームの建設に反対する近接町内会の役員からの電話だった。 見晴らしのいい山の斜面に斜向で計画された老人ホームであった。万全の安全計画・仮設計画はしていたものの、掘削した土砂をどうしてもダンプで運び出さなければならない。そのダンプの走行経路の町内会だった。この町内会を含めて関係する町内会全体から承諾をもらっていたが、それを翻す電話だった。 どこに行っても老人ホームは「嫌悪施設」とみられるきらいがあり、総論賛成各論反

私の人生の軌跡(ゼネコン営業マン編) 『T』という所長の話

私がゼネコンで営業マンになったのは30歳になってからである。 当時はまだ若い営業マンは少なかった。 高度経済成長期にはゼネコンに営業をさせずとも、大きなインフラ事業(高速道路、ダム、トンネルなど)が十分会社を潤わせてくれたのであった。 営業部にはそんな大型現場を終えてきた所長クラスの土木屋、建築屋が次にやって来る仕事に控えて、朝から暇そうに煙草をくゆらせ新聞に目を通して昼前に会社を出て行って、そのまま帰ることはなかった。 まだ潤った時代の名残りは会社に本当の営業の必要を感じさ

怖いと思ったこと その2

建設業界の営業マンはわりと怖い思いをしているかも知れない。 まずは、オーナーが個人から上場企業、官公庁まで、実にさまざまなのである。 そしてこのオーナーとの契約にたどり着くまでにサブキーマンのような存在が時々ある。 そんな存在はまあまあややこしかったりする。 『経験』という二文字で済ませてしまうがこんな人たちとの付き合いで気持ちや心をすり減らし、なかには命まで落としてしまう方までいる。 気楽にやって来たつもりであるが、ある意味命懸けの24時間365日の仕事だった。 このno

放置竹林整備についてかんがえる

かれこれ二十年以上京都でお付き合いさせていただいている行政OBが理事長を務めるNPOの事業のお手伝いをしています。 と言っても、家族の介護や看病であまりに忙しくなり、加えて流行り病、今、私は全く何もしていないのですが、、 直近では、と言いながらもすでに三年前の今頃、嵐山の竹林整備が進んでいるから見に来いと言われ行ってきたのが現場でお会いした最後です。 私より10歳年上、50歳で現役を、いろんなことがあって辞めてしまいました。 現役時代にはいつも夜な夜な祇園のクラブでお会い