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生きるためにやって来た仕事のはなし

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なかなか理想を仕事とすることは難しいもの、食べるため、生きるためにしてきた私のサラリーマン人生です
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#ゼネコン営業マン編

ほたるのはなし

季節外れのはなしで申し訳ない。 暑い暑い夏の夜に飛び交う『蛍』のはなしである。 note の『傘わっしょい』さんの短歌が好きで、毎晩一首づつ読ませてもらっている。 その中にある昨年末の短歌が私の記憶の引き出しに手を掛けた。 短歌 壁ホタル 人感センサーライト センサーの狂ひし蛍のやうにしてわれはありなむたれからもひとり の『狂ひし蛍のやうにして』とセンサーを蛍に比喩されているのだが、たった一度だけのこと、それも生まれて初めてたくさんのホタルの群れに包まれたことを思い出

私の人生の軌跡(ゼネコン営業マン編)「さよならだけが人生さ」とうそぶいたあの日 

ふつふつと不完全燃焼のままくすぶった心残りのようなものがあると、はっきり言っておきましょう。 「もうこれでいいや」そう思って辞めたゼネコン営業マンですが。 2年近く朝から晩まで多くの時間を共に過ごしたS京都営業所長は支店次長兼任で大阪南部エリアと和歌山エリアの所長として京都から出ていってしまいました。どちらも建設業の仕事には難しいことが散在している地域です。その難しさのすべては歴史です。所長はここでも身体を張って仕事をしていました。 サラリーマンには当たり外れや運や不運の

私の人生の軌跡(ゼネコン営業マン編)生き方を考えさせてくれた反面教師のMという営業部長の話

「滅私奉公」なんて言葉はもう死語なんでしょうか。私がゼネコンで営業マンをやっていた平成の初めにもそんな言葉はとんと耳にすることはありませんでした。しかし、会社にはまだまだ昭和の「野武士」の残党たちが残っていたのです。「24時間戦いますか」なんて栄養ドリンクのキャッチコピーが流行っていた頃です。ほぼ24時間365日働かされていた頃です。朝は7時過ぎには会社に着き、帰りはほぼ毎日タクシーで梅田か難波あたりから奈良まで帰りました。仕事で稼げばそんな経費に目を剝く上司はいませんでした

私の人生の軌跡(ゼネコン営業マン編)組織の改編のなかで

一つの形が出来上がる前、それは手探りの期間でもありカオスの時間でもあります。 上に立てば大変だと思いました。 すべては思い描くようにはならず、結果を容認できる力や周囲に押しつけて組織の常識を変えるくらい強い力が必要なのだろうと思いました。 特に営業部に集められた男たちは一筋縄にはいかぬ連中ばかりでした。 私の三十代は、ただただそんなカオスの中で翻弄された時代だったように思います。 その間に私の神経は太い針金、いや、ワイヤーロープのように丈夫になっていったのです。出たとこ勝負、

私の人生の軌跡(ゼネコン営業マン編) ともに仕事した私の多くの仲間たち

私がゼネコンに入社した1985年(昭和60年)は日本がバブル景気に突入する直前、現在の日本しか知らぬ若者たちには信じられないほどの活気に満ちあふれた時代であった。 入社式で社員1万人の退職金をキャッシュで支払うだけの銀行預金を持っていると本社経理課長が説明したのを指で計算しながら、なんだかすごいなぁと思ったのを記憶している。 後発のゼネコンであったたが当時の経営者達の知恵と度胸、先輩達の並々ならない努力の賜物で大手ゼネコンに食い込み、受注額1兆円をゼネコンで初めて突破して飛ぶ

私の人生の軌跡(ゼネコン営業マン編) 『K』という営業課長の話

私は営業所と現場での事務を都合4年間やり、営業職に移った。営業所の建築課長とあることの主張で対立し、もう会社を辞めようと思っていたところを営業所の営業部長に諭され、促されて営業に移ったのである。でもこの時の京都営業所営業課での所属は1週間だけであった。どうせやるなら大阪支店で勉強して来いと新しく代わった営業所長に背を押され、大阪支店営業部に送り出されたのであった。 そしてこの後私の出会った多くの先輩達は皆アクが強く、皆強烈に仕事の出来る男たちばかりであった。 その中でも私はこ

私の人生の軌跡(ゼネコン営業マン編) 『S』という事務課長の話

それは1本の電話から始まった。 着工のもう決まっていた有料老人ホームの建設に反対する近接町内会の役員からの電話だった。 見晴らしのいい山の斜面に斜向で計画された老人ホームであった。万全の安全計画・仮設計画はしていたものの、掘削した土砂をどうしてもダンプで運び出さなければならない。そのダンプの走行経路の町内会だった。この町内会を含めて関係する町内会全体から承諾をもらっていたが、それを翻す電話だった。 どこに行っても老人ホームは「嫌悪施設」とみられるきらいがあり、総論賛成各論反

私の人生の軌跡(ゼネコン営業マン編) 『T』という所長の話

私がゼネコンで営業マンになったのは30歳になってからである。 当時はまだ若い営業マンは少なかった。 高度経済成長期にはゼネコンに営業をさせずとも、大きなインフラ事業(高速道路、ダム、トンネルなど)が十分会社を潤わせてくれたのであった。 営業部にはそんな大型現場を終えてきた所長クラスの土木屋、建築屋が次にやって来る仕事に控えて、朝から暇そうに煙草をくゆらせ新聞に目を通して昼前に会社を出て行って、そのまま帰ることはなかった。 まだ潤った時代の名残りは会社に本当の営業の必要を感じさ

私の人生の軌跡(ゼネコン営業マン編)『たけのこの思い出』

もうずいぶん以前になるが、ゼネコンで営業マンをやっていたことがある。 建設業は決まった製品を作り売る製造業とは違う。何もないところに事業や建物を構想して一から作り上げていくのである。 「まずは土地ありき」と思われがちであるが、そうばかりではないのである。 どのゼネコンも官民の担当を分けていた。飲み食いが当り前の民間営業と官庁営業を一緒にしてしまうと贈収賄にもつながりやすく、第三者の目から誤解を受ける可能性もある。だから分けられていた。しかし、きちんと分けれるのは本社や支店の営