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生きるためにやって来た仕事のはなし

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なかなか理想を仕事とすることは難しいもの、食べるため、生きるためにしてきた私のサラリーマン人生です
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2024年5月の記事一覧

私の人生の軌跡(ゼネコン営業マン編)生き方を考えさせてくれた反面教師のMという営業部長の話

「滅私奉公」なんて言葉はもう死語なんでしょうか。私がゼネコンで営業マンをやっていた平成の初めにもそんな言葉はとんと耳にすることはありませんでした。しかし、会社にはまだまだ昭和の「野武士」の残党たちが残っていたのです。「24時間戦いますか」なんて栄養ドリンクのキャッチコピーが流行っていた頃です。ほぼ24時間365日働かされていた頃です。朝は7時過ぎには会社に着き、帰りはほぼ毎日タクシーで梅田か難波あたりから奈良まで帰りました。仕事で稼げばそんな経費に目を剝く上司はいませんでした

私の人生の軌跡(ゼネコン営業マン編)組織の改編のなかで

一つの形が出来上がる前、それは手探りの期間でもありカオスの時間でもあります。 上に立てば大変だと思いました。 すべては思い描くようにはならず、結果を容認できる力や周囲に押しつけて組織の常識を変えるくらい強い力が必要なのだろうと思いました。 特に営業部に集められた男たちは一筋縄にはいかぬ連中ばかりでした。 私の三十代は、ただただそんなカオスの中で翻弄された時代だったように思います。 その間に私の神経は太い針金、いや、ワイヤーロープのように丈夫になっていったのです。出たとこ勝負、

私の人生の軌跡(ゼネコン営業マン編) ともに仕事した私の多くの仲間たち

私がゼネコンに入社した1985年(昭和60年)は日本がバブル景気に突入する直前、現在の日本しか知らぬ若者たちには信じられないほどの活気に満ちあふれた時代であった。 入社式で社員1万人の退職金をキャッシュで支払うだけの銀行預金を持っていると本社経理課長が説明したのを指で計算しながら、なんだかすごいなぁと思ったのを記憶している。 後発のゼネコンであったたが当時の経営者達の知恵と度胸、先輩達の並々ならない努力の賜物で大手ゼネコンに食い込み、受注額1兆円をゼネコンで初めて突破して飛ぶ

私の人生の軌跡(ゼネコン営業マン編) 『K』という営業課長の話

私は営業所と現場での事務を都合4年間やり、営業職に移った。営業所の建築課長とあることの主張で対立し、もう会社を辞めようと思っていたところを営業所の営業部長に諭され、促されて営業に移ったのである。でもこの時の京都営業所営業課での所属は1週間だけであった。どうせやるなら大阪支店で勉強して来いと新しく代わった営業所長に背を押され、大阪支店営業部に送り出されたのであった。 そしてこの後私の出会った多くの先輩達は皆アクが強く、皆強烈に仕事の出来る男たちばかりであった。 その中でも私はこ

私の人生の軌跡(ゼネコン営業マン編) 『S』という事務課長の話

それは1本の電話から始まった。 着工のもう決まっていた有料老人ホームの建設に反対する近接町内会の役員からの電話だった。 見晴らしのいい山の斜面に斜向で計画された老人ホームであった。万全の安全計画・仮設計画はしていたものの、掘削した土砂をどうしてもダンプで運び出さなければならない。そのダンプの走行経路の町内会だった。この町内会を含めて関係する町内会全体から承諾をもらっていたが、それを翻す電話だった。 どこに行っても老人ホームは「嫌悪施設」とみられるきらいがあり、総論賛成各論反

私の人生の軌跡(ゼネコン営業マン編) 『T』という所長の話

私がゼネコンで営業マンになったのは30歳になってからである。 当時はまだ若い営業マンは少なかった。 高度経済成長期にはゼネコンに営業をさせずとも、大きなインフラ事業(高速道路、ダム、トンネルなど)が十分会社を潤わせてくれたのであった。 営業部にはそんな大型現場を終えてきた所長クラスの土木屋、建築屋が次にやって来る仕事に控えて、朝から暇そうに煙草をくゆらせ新聞に目を通して昼前に会社を出て行って、そのまま帰ることはなかった。 まだ潤った時代の名残りは会社に本当の営業の必要を感じさ