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飲み屋に恋する男のはなし

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酒抜きで語れぬ私の人生、そのほんの一部をお聞きください、、
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#恋する男

恋のおわりは

今日から私が以前、恋の病に取り憑かれたように始めた『立ち飲み屋』の話を綴りたく思います。 多くのお客さまに足を運んでいただきました。 多くの友人も日本中から集まってきてくれました。 やんごとなき事情で再び方向転換をするまでの一年半の時間をともに過ごしていただいた皆さんとのお付き合いの話が中心となります。 今日は簡単に店の周囲の雰囲気をご理解いただければと思います。 私は大阪の人間ではありません。大阪は人に優しい街だと思います。 その中でもこの『阿倍野』って街が、素敵に優しい

阿倍野の飲み屋のものがたり その7    (マカロニサラダ編)

たくさんのお客さんを迎えることの出来た一年半であった。 老若男女、いろんな職業の方、たくさんの旧知とも再会することが出来た。 考えてみれば私はそれまで『待ちの仕事』をしたことが無かった。 営業は基本的に外に出て攻めなければならない。 定時に出社して定時に帰宅なんて無かった。 お客様を迎えるために毎日買い出し、仕込み、掃除と狭い店で昼前後からゴソゴソと、そして一人だけのカウンターで早い晩メシをかき込みお客さまを待った。 そんな時間が好きであった。 誰とも話をせず誰にも気を

阿倍野の飲み屋のものがたり その6    (カレーのルー、ロールパン付き編)

大阪、鶴橋をご存じだろうか。 1984年、大学を卒業しゼネコンの大阪支店に配属されて新入社員の研修で行かされたのが東大阪の下水道シールドの現場だった。 その時乗り換えたこの鶴橋駅で嗅いだ匂いが忘れられない。 近鉄線に乗り換えのため、JR鶴橋駅のホームに降りた瞬間に焼肉の匂いをかがされたのである。 匂い付きの駅ってのは他を探してもなかなかないのではなかろうか。 私はここの市場と商店街での仕入れのために毎朝通っていた。 JR天王寺駅から環状線の内回りに乗って大阪に向かい、寺田町

阿倍野の飲み屋のものがたり その5    (ネギ入り玉子焼き編)

最初はだれでも一見だ。 立ち飲み屋は飲み屋の中でも一見さんの多い業態だろうと思う。 たいていの立ち飲み屋はこの流行り病の前から入り口はオープンである。 そして、客単価は安い。 誰でも入りやすいようにしてあるのである。 考えれば私の店にもたくさんの一見さんが足を運んでくれた。 それは開店してそれほど時間は経たないまだ陽の残る夕方だった。 「よろしいかしら」その女性客は関西弁を使わなかった。 その女性客も私の前に立った。 短髪の品の良い70は過ぎているだろう着物姿の女性だった

阿倍野の飲み屋のものがたり その4    (ミートボールスパ編)

ノーパン喫茶なんてご存知だろうか、 朝早くから、もちろん女性もいる中でこんな話でスタートして申し訳ない。 時代は昭和、1980年頃、この阿倍野に『あべのスキャンダル』ってノーパン喫茶が出来て日本中で話題になった。 ウエイトレスの女性がパンツを履いてないそうな。 こぞって皆さん出かけたそうな。 当時そこから全国に広まった元祖ノーパン喫茶、ノーパン喫茶の聖地『あべのスキャンダル』は私の店の目と鼻の先にあったそうである。 のちにノーパンしゃぶしゃぶなるものも現れ、アホな役人が鼻

阿倍野の飲み屋のものがたり その3    (ポテトサラダ編)

ガラガラと半開け状態のシャッターを開け切り、のれんを出すとすぐにのぞいてくれた女の子がいる。 「宮マス、三人いける?」と元気よく話しかけてくる。 いけるもなにも開店したばかり、客などまだ誰もいない。 「好きなところどこでもいいいよ」と言うとまだ残った仕込みをしている私の前に来る。 彼女は初めて来た時に私の名前を確認し「宮島さんがマスターだから、宮マスだわ~」と言い、それ以降ずっと彼女は私を『宮マス』と呼んでくれた。 そしてその『宮マス』は彼女と私の間でしか流行ることはなかった

阿倍野の飲み屋のものがたり その1    (鶏皮ポン酢編)

夕方五時開店、開店直後から割と忙しい店だった。 この時間帯はだいたい決まった方々だった。 自転車で乗り付けてくれる防災工事会社の社長がだいたい一番乗りだ。 美味い酒を飲むために堺市から自宅近くの私の店まで来てくれた。 地元の貸しビルのオーナーはいつもパチンコの帰り、毎回「三万負けた、五万負けた」と私の店の売り上げもしくはそれ以上のことを言ってまずはビールを乾いた喉に流し込む。 難波の百貨店にお勤めの品の良い私と同じ歳の独身女性は非番の時、この時間に出て来てくれた。 一見のお客