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日々考えることのはなし

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毎日考える何か、何かが引き金になり考える何かを綴ってみました
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2023年10月の記事一覧

うどんを食って考える

仕事をする。メシを食う。酒を飲む。合気道の稽古をする。 不思議ではあるが最近時間の使い方を時々意識する時がある。これが歳をとったということなのかと思ったりもする。ほんの時々意識するのである。 時間を無尽蔵と考えていたわけじゃないのだが、若い頃には残された時間を意識することはなかった。たぶんほかの連中も同じなんじゃないだろうか。 この歳になって時々時間を意識しだした私は、だから何かに背中を押されるわけではない。何も変わっていないのである。変わったのは意識だけである。何かをやり残

最近疑問に思ったこと

何年ぶりに百貨店のおもちゃ売り場に行っただろうか。息子とよく行ったのはもう遠い昔のこと、なんだか立ち入ってはならない場所のようにも思えたが、入り込んでみればなんてことはなくすんなり受け入れてくれる世界がまだそこにはあった。でも、そこには以前ほどの活気は無く、目を輝かせてはしゃぐ子どもの姿も無かった。売り場面積自体も小さくなっているのではないだろうか。子どもたちの興味が私が知る昔の子ども達の興味と変わって来ているのだろう。いささかの寂しさと「それでいいのか」という疑問が生まれた

機械油と金木犀のにおい

秋は香る。久しぶりに降り立った東大阪の地は相変わらずの機械油のにおいに包まれていた。その中に金木犀は決して誰とも争うことはなく年に一度、この時期だけの存在感を私に遠慮することなく訴えてきた。 人と会い、浮き世のごたごたを整理する私に肩肘張ることなく話するよう訴えているようであった。 秋は刺す。秋の陽は乾いた空気がするすると私の頬に強い紫外線を運ぶ。年に一度この時期だけ私の頬に話しかける。 これまで生きて来た長い年月が育ててくれた私の感性そのままで今日の日は伝えて来いと私をう

今年も『ふたり展』

今年もやって来ました。 設計事務所時代の先輩、一回りも歳上の先輩が毎年この時期に行っている絵画の展示会である。前回この先輩のことを書いたのが2021年、もう二年も前のことである。「早いなぁ、」という感想を持ち、何も変わっていない自分がいることに焦りを感じる。昨年は私の都合で来れなかった。だからなおさら感じるのかも知れない。後期高齢者となった先輩とご友人、やはりそれなりの年齢に見えないこともない。 定点で人を観察する、ということは私も誰かに観察されているということであろうが、

秋の夜長に考えた

気がつけば秋。 少し冷たい空気の中で、少し切なく悲しい気持ちになる。 少しばかりの人生をまだ登り切ったわけでもないのに、 少しばかりの人生を、生きたつもりになっている私がいる。 秋はそんな季節である。 いくつになってもセンチを感じフッとつくため息が許される時季である。 日々のごたごたをすべて忘れ去って、この我慢の出来る冷たさに身をさらして、遠回りして帰ってみたくなる。行き先を決めずに一区間だけの乗車券を買っていつまでも電車に揺られていたい気持ちになる。 逃げ出さなければなら

扉を探す猫

我が相棒だったトラとブウニャンがそうだった。 一番記憶に残る40年以上も前にともに生活したブチ以来何匹かの猫の中でこの2匹だけが完全な家猫だった。 家猫である彼と彼女には私たちの知らない扉があるようであった。こんなことを書けば『夏への扉』のピートを思う方がいるであろう。でもそれとは違う。我が同胞の猫達は私には見ることのできない扉をいつも探しているようであった。 私は彼らを24時間監視したことは無い。仕事や用事で家を留守にしている間に二人が何をしているかなど詮索したことは無い

包丁を研ぎ思い出す

九月晦日、なんとなく包丁を研いだ。 いつもなんとなく、そろそろと思い砥石に包丁の刃をあてる。 包丁研ぎが好きなのである。 研ぎあがった包丁でトマトを切る、キャベツを刻む、そんな時間が快感なのである。 子どもの頃から自分で「肥後守」(ひごのかみ)を研いでいた。今のお若い方は肥後守はご存じないであろう。金属板でプレス加工した簡易なグリップのある折り畳みナイフである。私たちの子どもの頃、昭和40年代にはまだそんなナイフをポケットに入れて歩いていてもとがめられることはなかったのであ