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資料の整理

 不要不急ということで、ちょっと休業状態が続いている。そんなことで乱雑であった資料の整理などを始めたが、なかなか収拾がつかず、拡散していくような状況で時々溜息をつきながら休憩をとり継続している。パソコンは検索機能もつき便利になったが、初期的に資料の整理がその場その場の思い付きで脈絡がなく、なかなか作業が進まない。そんな中、だいぶ以前のものもあるが読み返してみると昨今の出来事のようで、そのなかのいくつかを編者的な立場で併記してみた。たぶん内田樹の書籍やブログなどからであると思う。

「大衆」の住む家
 「ああいう人たちがいる。ああいう人たちが、日本中どこに行っても、いや、世界中どこにいっても、人口の大部分を占めているのだ」
 そう叔父さんが嘆き嫌悪する、品のない大衆の幼型がここにいる。
 そういう人々は昭和十一年にもいたが、現代にもいる。数はさらに増している。技術の進歩と品格の向上には相関関係がない。問題は、大衆の品のなさを嘆く自分もまた大衆のひとりにすぎない、というジレンマである。

大衆の反逆
 個人が「マッス」への溶解を拒否し、その単独性を引き受けて生きること、それが「統合への王道」なのである。
 オルテガ的な「統合」は「理解も共感も絶した他者と、それでもなお共存してゆく能力」によってしか基礎づけることができない。
(中略)オルテガの言う「大衆」は社会階層とも年収とも文化資本とも関係がない。
 「大衆とは、みずからを、特別な理由によって-よいとも悪いとも-評価しようとせず、自分が〈みんなと同じ〉だと感ずることに、いっこうに苦痛を覚えず、他人と自分が同一であると感じて、かえっていい気持ちになる、そのような人々全部である」(『大衆の反逆』寺田和夫訳)
 「自分と同一である他人」の数が多ければ多いほど大衆の「いい気持ち」は高まる。
 だから、大衆はまわりの人々をできるだけ自分に似せようとする。そのための努力を惜しまない。
 しかし、自分と似ている人間がふえればふえるほど、個人の唯一無二性は脅かされる。
 だから、逆説的なことだが、大衆社会では、「みんなが単独性を放棄して、マッスに溶け込み、お互いにそっくりになればなるほど、みんなが『自分だけは特別だ』という不可能な事実を自己責任において挙証しなければならなくなる」という構造的にストレスフルな社会となる。(中略)この恐るべき「大衆」に対して、オルテガは「市民」という概念を対置してみせた。

家族を基礎づけるもの
 ぼくたちの年齢は「ニューファミリー世代」と呼ばれる世代に属しています。それまでの「家」中心の家族から、「個人」中心の家族へ移行し、「高め合う夫婦」や「友だちみたいな親子」という新しいモデルをめざして家族の絆を作ろうとしてきた世代、というふうにまとめられると思います。
 形式的、法律的な縛りをふりほどき、愛情と信頼だけで結ばれた家族だけがほんとうの家族だ、というふうに考えてきたわけです。
 しかし、やってみて分かったことは、愛だけを条件にしたら、ほとんどの家族は成立しない、という悲痛な事実でした。
 家族メンバー個々人のピュアな愛情だけで結びついてる家族というのは、思いの外に脆いのです。

 ぼくは芦屋で震災を経験して、マンションが壊れたので三週間近くの小学校の体育館に避難していました。体育館には数百人の人が寝泊まりしていましたが、そのとき見たものの中で一番醜悪だったものの一つは、体育館の隅の広い場所を占拠し、まわりに段ボール箱で「垣根」をはりめぐらし、そこに援助物資を溜め込んでいたある一家の姿でした。
 この人たちは近隣の人々を押しのけても、自分の家族だけを守ることは「常識」だとおそらく思っていたのでしょう。公共性を失った核家族というのは実に見苦しいものだとぼくはそのとき思いました。

 このふるまい方は「愛情がなければすぐに離婚する夫婦」や、「子どもが可愛く思えないので暴力をふるう親」に通じるものです。彼らに共通するのは、「自然に発露するようなほんものの愛情」だけが人間同士を結びつけるべきであって、義務感や使命惑や倫理観のような面倒な社会的な約束事で結ばれた他人との関係は不純であり、偽善的なものだ、という「純粋主義」「ほんもの志向」です。
 これは人間についてのとんでもない勘違いだとぼくは思います。

 他人に対して優しくするにはいろいろなやり方がありますが、「ほっといてあげる」というのは、その中でも一番難しい接し方です。でも、適切なしかたで「ほっといてもらう」ことほど人間にとって心休まることはないのです。
 誤解しないで欲しいんですけれど、単に「ほっておく」とは違うんですよ。「ほっといて「あげると」」「ほっといて「もらう」」ということばづかいから分かるように、それが敬意の応酬であることが双方にはちゃんと意識されているんですから。
 ほんとうに親しい人たちの間では、ときには「何もしない」ということが貴重な贈り物になることもあるのです。でも、こういうことには、「コミュニケーションとは贈与である」というものごとの基本が分かってないと、なかなか理解が及ばないでしょうね。

教養主義
 「教養主義」には知識を競いあうようなところがあるが、「教養」は知識ではなく、ひとつの節度のことだという。「これをやるならやらないほうがまし」という感覚である。自分を超えたもの、自分より優(まさ)ったものを見とどけ、それに従うという態度である。かつてオルテガは、それが見えず、専門性という名の視野の狭さに自足する科学者こそ、エリートどころかむしろ「大衆」の典型だと言い放ったが、おなじように村上は、「誰かが見ているという意識を根拠にして、だからやらないんだという振舞(ふるま)い方は、私はちゃんと残しておいていい人間の姿だと思うんですよね」という。そのためには、「可能な選択肢をできるだけ多く体験すること」、つまり自分が依拠しようとする枠組みを選択し、十分に練るだけの時間が要るという。

反知性主義者たちの肖像
 誤解している人が多いが、民主制は何か「よいこと」を効率的に適切に実現するための制度ではない。そうではなくて、「わるいこと」が起きた後に、国民たちが「この災厄を引き起こすような政策決定に自分は関与していない。だから、その責任を取る立場にもない」というようなことを言えないようにするための仕組みである。政策を決定したのは国民の総意であった。  それゆえ国民はその成功の果実を享受する権利があり、同時にその失政の債務を支払う義務があるという考え方を基礎づけるための擬制が民主制である。
 このためには、死者もまだ生まれてこない者もフルメンバーとして含む、何百年もの寿命を持つ「国民」という想像の共同体を仮定せざるを得ない。その国民なるものが統治の主体であるという「物語」に国民が総体として信用を供与するという手続きを践まざるを得ない。

マニュアルから型へ
 マニュアルは人間をその枠内に閉じこめて、そこから逸脱することを許さない。それに対して型は、人間をその枠内に迎え入れながら、そこから各自のズレやブレを生じさせることによって、その枠外へあふれさせる。それゆえマニュアル人間は、一定の枠内におさまって変化しなくなり、型人間は枠内と枠外のボーダーを揺れ動いて自己を更新し続ける。相対的に見れば、ものを見る目は、自己を固定化する前者より、むしろ自己を流動化あせる後者に育ちやすい。

クレーマー親との戦い
 クレーマー親の驚くべき事例について生々しい話を聞く。
 ほとんど極道の「追い込み」と変わらないような陰湿で粘着的な手口で教師を追い詰めてゆく。
 あまりに態度が悪くて、ついに恐喝と威力業務妨害が適用されて警察に逮捕されてしまった親さえいるそうである。
 別にやくざでもなんでもない一般市民が教師相手になると、極道まがいのロジックを駆使することをためらわないというのはどういうことであろう。
私も教務部長のときにずいぶんクレーマー親の相手をしたけれど、この諸君の「因縁のつけ方」というのはある種の洗練に達していた。
 極道と同じで、わずかな瑕疵をみつけて、そこについての事実認知と謝罪を要求する。それに応じると、後はそれを足がかりにして、どんどんと要求を吊り上げてゆく。そして、こちらが応じられないというと、「あんた、さっき謝ったでしょう。大学に非があると言ったでしょう」と目を三角にして怒り出す・・・
 困ったことに極道は「悪いことをしている」という自覚があるが、クレーマー親にはその自覚がないことである。彼らは大学という官僚的で非人間的な機構の横暴に対して、徒手空拳で正義の実現を求めている「受難者」という立場を空想的に先取りしている。
 だから、まるでネゴシエーションにならない。
 だからこちらの対応がだんだんフレンドリーでなくなってゆくのもやむを得ないのである。
 まず自分は「システムの被害者」であるという名乗りから社会関係を説明しようとする一般的傾向を何とか食い止めないと、この社会はますます住みにくくなる。
 そのためにはまずメディアが「被害者目線」であらゆる問題を論じる態度を改めるべきであろうと思う。ほんとに。


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