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マラソン 

 もうとっくの昔のことだが、野球の練習やマラソン大会などで走っていると途中から苦しいさが襲ってくる。それでも走り続けていると、何のきっかけか急に身体が軽くなり息苦しさも消えて、このままずっと走り続けられそうな錯覚に襲われる。そんな経験が何度かあった。毎回ではないが、その軽さを知ったことのある人と、知らない人では、結構その後のものごとに対する取り組み方に大きな違いが生じるような気がする(たぶん)。あくまで個人的な経験でアスリートが語る奥の深い経験ではありません。
 マラソン・ハイで思いだされるのは、ブレーク・スルー(脱皮)や読書、音楽(経験)である。個人的な意見だが、これらの経験は再生すなわち日々新たに生まれ変わる経験である。「小さな死(仮死)」と「新たな甦り」とでも呼んでよいようなことであり、僕らは日々輪廻転生という円環する時間を生きている。今日もまた昨日と違う自分に出会うために読書(一度読んだ小説)や音楽(何度も歌った歌)を待ち焦がれて繰り返す。
 
「ああ気持ちいい!」という子どものころの原体験 
内田
僕は、子供の原体験というのは絶対的快感だと思うんですよ。「ああ、気持ちいい!」っていう。僕らが子供の時代だと、夕焼けをぼおっと見てる時に、お豆腐屋さんのプーッていうラッパが聞こえて、薪の焼ける匂いがしたりしましたよね。そういう時に、「ああ、すごーく気持ちがいい」と思うってことあったでしょう。たぶんその時の身体ってすごくいい状態だったはずなんです。肩の力がスッと抜けて、体軸もまっすぐで、どこにも力みも詰まりもなくて。この時の「ああ、気持ちいい」っていうのが、その後生きて行く時、最終的に絶えず参照していく原点になると思うんですよ。
橋本
俺そのね、「ああ、気持ちがいい」を思い切り表現したことが一度だけあります。近所の子たちと知らない原っぱに遊びに行ったんですよ。そしたら地元の子らしい小さな子のグループがもう一つ来たんです。しばらく別々に遊んでる間に、どちらからともなしに「一緒に遊ばない?」ってなって、二十人ぐらいで遊んでね。知らない人とこんなに遊べるんだっていうことが、みんな子供心にもすごくエキサイティングだったんですよ。やがて林の影に日が落ちて暗くなったからもう帰ろうということで、「じゃあね、さよなら」って言って、林を抜けてフッと顔上げたら、真っ赤な夕焼けなんですよ。で、「ああ、きれい」って言うかわりに、みんなでいつの間にか「夕焼け小焼けで日が暮れて」って大声で歌いだしちゃったんですよ(笑)。
まるで子供が出てくる映画のワンシーンなんだけど、そんなの子供が見ててもわざとらしいと思ってたわけですよ(笑)。でもほんと自然に、みんなで歌いながらね、ズーッと歩いちゃったんですよ。さすがに俺も五年生か六年生だったから、何かとんでもないことやってるのかなって思ったんだけど(笑)。
内田
子供の時の感動って、疑いえない原体験じゃないですか。今のお話で言えば、見知らぬ者同士の間に、確かな連帯感というものがありうるっていうことを、知っている人間と知らない人間とでは、その後の生き方がもう決定的に違ってくると思うんですね。
橋本
ほんと違いますよね。教えてもわかんないもんね。
(橋本治と内田樹)

日々の中で
「頭の中でターボの焼け焦げる匂いがする」
いまは、ほとんどお目にかかることがなくなった。
 
仕事で、打合せをして設計図書の密度や濃度が増していく経験をしたことは数度しかない。後は苦役(大げさだが)に近かった。
 

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