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いつもと変わらない風景

 国会で論戦が繰り広げられている、といえば聞こえがよいが、いつもと変わらない無味乾燥な最初から分かりきった物語を演じている。口はパクパクしているが、言葉がどうにも届かない。こちらの偏見もあるだろうが、いい年をして遠い昔(昭和)の中学生や高校生の「青年の主張」(演説会)に近く、時代錯誤であり今の大人は中高校生程度かよ、なって感じてしまう。
 コロナ禍で生活に喘いでいる人たちがいるというのに、無駄な経費と時間をかけて、自説の正当性だけを手前勝手に言い立てている。論戦などとテレビや新聞では、言っているが論戦などという上等な言説の場などではない。
パンデミックで緊急事態であり社会の存続がかかっているとき、政党のメンツや建前ではなく、いまこそ叡智を出し合ってこの場をしのぎ国民が安心して暮らせるように思慮するのが政治家の役目ではないのだろうか。意見の相違や考えの違いは、どこにでもある。だからと言って相手の揚げ足を取ることだけに邁進していては進展はしないし、その間に事態は、待ったなしに進行していく。一時的であり協調する(妥協ではない)という選択肢はないのだろうか。あまりに幼稚過ぎ大人の振舞ではない(あまり偉そうに言える立場ではないですが・・・)。
 少し話はそれるが、夫婦で暮らしながら意見や考えの違いなど生じた時どうしているのだろうか。国会みたいに相手のこまごました重箱の隅をつつくように言い立てて、終わることのない関係を続けているのだろうか。とってもじゃないがそんな夫婦関係はごめんである。そんなことをいったら、どっからか聞こえそうである。「夫婦関係と国会を同じにするな。国会は天下国家のことである」と。

「難しさ」とは何か? 村上春樹
 「わかってもらえるように書く」手間暇をかけることができるのは、読者の知性を対する信頼があるからです。それが読者に伝われば、僕は読者はかなり難しい話でもついてきてくれると信じています。

 転換期には、ものごとを根源的に考えることが要請されます。
 そして、いつの時代でも、若い人たちにものごとの成り立ちを誠実に説明しようとしたら、根源的な問いを忌避することは許されない。つまり、転換期において、若い人たちに向って、今起きていることを説明し、生き延びる道筋を示唆するという仕事は、私たちに二重に根源的であることを要請するということです。これはそう考えると、ずいぶんやりがいのある仕事ではないかと私は思います。

他者としての配偶者について  街場の現代思想 内田樹
 人間の人間性は、「絶対的に理解も共感も絶したはずの他者の声が、それでもなお聴き取れる」という逆説のうちに存するのであり、それ以外にはない。死者とだってコミュニケートできる、というのが人間の定義である。

 結婚とは「この人が何を考えているのか、私には分からないし、この人も私が何を考えているのか、分かっていない。でも、私はこの人に言葉を贈り、この人の言葉を聴き、この人の身体に触れ、この人に触れられることができる」という逆説的事況を生き抜くことである。

 「私には理解できない考え方をする人間のことば」に耳を傾ける習慣を持つものしか、あなたのことばを聞き取ってはくれないのである。

コインの裏表
 よくコインの裏表の比喩で、モノごとには裏表があり、見方の違いである、などと若い時から聞かされてきた。聞くたびに頷きはするが、何か後味が悪く、納得していない。たぶんそのいい草に大人びた少し上から目線を感ずるのと、世の中を悟ったようなニヒルさをかぎ取ったからであろう。それなりの年齢になり、やはりコインはコインであると思うようになった。裏も表も同じコインであることには変わりはなく、裏や表、コインと名づけたのは僕たちの恣意であり、その概念に上書きするように、コインの裏表といっても裸の王様と一緒である。
 僕らの時代は、反権力や反帝国主義などと叫んでいた、いつも心情的には与したいが、なぜか躊躇させるものがあった。コインの裏表と同じである。反権力も反帝国主義も「反」とは権力や帝国主義と同位相であり同心円を描いているだけである。表層的には対峙する思想や理念に見えるが、同根であり、そこには批評など生まれ余地などはない。ほとんどの革命は独裁国家を生み、帝国主義は形を変えて(現在は経済という名で)世界に拡散している。どこの国の為政者も同じに見えるのは、そのためであり、ぼくらはすでに経験的にそのことを知っている。

職業団体の分派
 若い時、僕たちの職業の団体が何故、いろんな団体があるのか調べたことがある。明治以降から結構分派して今日に至ったことが分かった。分かったのはいいが、なぜこんなに分派するのか不可解であったが日本人は分派する傾向があるのだろうという程度でそのまま放置した、
 どうも僕の職業団体もそうだが、日本のほとんどの団体は分派して、それぞれが主張し合っている。なぜか主導権雄争いだけで、中身は空っぽに見えてしょうがない。そういえば日本の政治も同様で与党であるとか野党であるということは表面的な違いだけで、結局は見ていると同類、同族の内輪の言い合いにしか見えない。日本という政党の内輪の派閥の競争くらいに思えば与党も野党も区別がなく派閥の存続(議員二世とか)だけが大事であり施策や理念などは二の次で政治に対し何も変わらないと見えたり感じたりするのは、そんなところに起因している。もうひとつ考えられるのは、僕たちの社会に浸透しているタテマエとホンネという観念を疑うこともなく、継続しているその事が考えられる。劇的な変化や施策、起死回生のプロジェクトを望んでいるわけではなく社会が少しでもよりよくなるためには、外部を見る目と内部を見る目をもち続けることであり、そうすることで少しはましな社会が見えてくるのではないだろうか(たぶん)。

真から間へ
 話を「真」に戻すと、「真」というコンセプトは「二」を意味したものだったそうなのです。

 おまけにその二は、ここもまた重要なところなのですが、一の次の序数としての二ではなく、一と一が両側から寄ってきてつくりあげる合一としての「二」を象徴していたのです。

 「二」を意味する「真」という概念。「真」を成立させるもともとの「一」は「片」と呼ばれていたそうです。片方や片側の片です。この片が別の片と組み合わさって「真」になろうとする。「二」である「真」はその内側に2つの「片」を含んでいるのです。

 それなら片方と片方を取り出してみたらどうなるか。
その取り出した片方と片方を暫定的に置いておいた状態、それこそが「間」なのです。松岡正剛『花鳥風月の科学』

 以前にも、引用しましたがどうにも世界を見わたすと男たちが、相も変わらずマンガにもならないようことをしでかし、大騒ぎをしているようで、再度掲載することにしました。

世界戦争の世紀 桜井哲夫著 三浦雅士評
男女関係の分析
 「行動的少数派の政治セクトは、『男の結社』であって、女性嫌いの結社である」
 「基本的にポリシェヴィキもナチスもみんな女性を排除するセクトであった」
 「世界戦争の世紀」すなわち『女嫌い世紀』『男の虚勢の世紀』ということかもしれない。

 男性原理と戦争への道程(明治期の男性原理の導入)


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