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SNSでの苛め

 朝のNHKテレビで「SNSでの苛め」について事例を紹介している。匿名でのツイート。誹謗中傷。加工動画の拡散などである。
 「苛め」とメディアは、いっているが、20歳以下なら苛めで、20歳以上なら犯罪なのだろうか。SNSは、小さな集団(学校・友人関係など)と大きな集団(社会・会社・国家など)という区別がなくなり、ボーダレスで行きかっている。見ていると見境がない状態が放置され、それこそ自覚や自制など介在する余地もないようだ。SNSなど開かれた社会をもたらしたというが、反面それに伴う倫理やルールを構築しておらず、その必要性を問う声を聞いたことがない。ただ新しいツールということだけで追随し、現在の政治家や有識者の人たちのように、世界の趨勢やグローバル化を鵜吞みにし、デジタル化がどんなものかも理解が及ばず、これからはデジタル化の時代だ、なんて言って市民や大衆に媚び選挙の時のように票をもらいたいがための受けを狙っている。
 無防備のまま各々が無作為に使用している、その様子は昔のツッパリ中学生のように見境なくなんにでも反抗したがる幼い大人たちと子供たちであり、SNS上は無政府主義的な様相を呈している。
 一方、前世代の人々は、自分たちが育った道徳や価値観で判断を下し(固定観念)、ある社会的位置を占めている人は体面を死守しようと保身に躍起であり(組織論)さまざまである。そもそも問題を解決しようとしているのだろうか。悩んだり、必死に問題を解決しようとした形跡が感じられない。本気で子供たちや社会の問題を我が身として引き受けている人が数少ないような気がしている。すべてがすぐに解決するということはないだろうし、いま起きている問題に即効性の特効薬もない。おそらく長い時間が待ち受けているだろうが、今できることは、あきらめず粘り強く考え続けることではないだろうか。

 SNSや苛めで事件が起きると、子供たちの異変について周囲の人たちからは「気がつかなかった」という言葉が聞こえてくる。子供たちは親などに心配をかけまいと話さないことが多いと聞く。うまく言えないが、果たして子供たちの予兆を感知できなかったのであろうか。僕は取りたてて感受性がいいわけでも、繊細でもない。そんな僕が言うのも何なのだが、子供のシグナルを見落とすのはなぜだろう。親に心配をかけたくない。兄弟にも言えない。友人にも先生にも言えない。それって信頼おける人間がいないということになりはしないだろうか(共感や感動をベースにしなくとも、ということわりは付け加えますが)。父母と考えの違う父母の兄弟の叔父や叔母だっており、また同じ年齢くらいの甥や姪だっているはずである。もしそのような関係が崩壊しているとすれば、すでに家族そのものが危うい状態であり、社会問題であるということになる。逆説的なことになるが家族が崩壊しかけているから、苛めなどが起きたのかもしれない。社会学者ではないので、わからない。もしかしたら資本制社会の核家族化が招いたのが現在であるともいえる。
 苛めなどが報道されると、必ずや子供たちに「いのちの電話」をよびかけている。すでに親や周囲の大人たちを見限ったということなのであろうか。

 自然は常に変化しており、それに触れる機会を持つ意味は、都市の生活は人為的(人工的)な世界で、ああなれば、こうなるという脳化された世界であり、それに慣れ親しんでしまうと、そこから逸脱していく変化に気づかなくなるという。もしかしたら親や教師、周囲の人たちは、人工化された都市生活に慣れ親しんで、変化することへの感度が落ちてしまったのかもしれない。人間の身体は生ものであり、自然である。そして常に変化している。生活の忙しさや、職場の仕事に忙殺されていることも確かにあるが、やはり、身体は自然であり、その身体への気遣いが、気薄になったからではないだろうか。

 標語や訓辞、印刷物が整い啓蒙すれば、解決すると思っている教師や教育関係者、有識者が多い。彼らこそ啓蒙という意識にすがり、概念化して(人工化・人為的)事足りると思っている。たぶん一生すれ違いが起き問題は、先送りされ繰り返すだけである。はた目からは、自己満足にしか映らない。鶏が先か卵が先か、わからないが子供たちが、相談など行おうとしないのは、そんな人々であることを見て育ち、見限ったからかもしれない。

 あくまで素人の推察であり、朝からテレビを見ながらそんなことを思っていた。

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