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透明な建築

 若いころは、建築が透明になることを望んだ。
 外と内が、何もなくつながり、雨露をしのげ、温かければ・・・などと思っていた時期がある。
 近代建築の透明さに魅了されたこともある。
 今では、あくまで的確ではないかもしれないが、身体の不自由さや矛盾から逃れることのできない葛藤から逃亡を企てていたのではないかと思う。
否応のないこの身体を引きずり生きて行く覚悟、それは、境界を境界として引き受けることにほかならない。
 そんな意味で建築の境界のざらつきや、ノイズがいとおしく思え、人間の身体を不器用に包んでくれる建築が、気になりだし古い建築をもう一度見直すようになった。
 身体は、アナログであり、いつか老いていくものである。

屋根のてっぺん 赤瀬川原平
 わが家の建築を藤森(照信)に依頼したわけだが、たとえば窓ガラスにはいずれも昔みたいな碁盤目の桟が入っている。あえて桟を入れたのである。  (中略)だから歴史上桟のない広い一枚ガラスの窓が出てきた時には、尊敬の念が集まった。こんな大きいガラスの窓を、つなぎなしの一枚で(中略)。でもいまは世の中が進化して、それがふつうになって、とくに尊敬の念もなくなってみれば、むしろ桟のない一枚ガラスの窓というものは、そもそも生理的な不安があるのではないか。遮ぎるものなく外が見えるというと、言葉の上では快適なようだけど、どことなく落着かない。しょせんそこは建物の切れ目なんだから、その場所を遮ぎる窓の桟がむしろ確認された上での外の風景の方が、目は生理的に落着く。人の住居の場合はとくにそうだ。


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