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普通の日常

 普通の日常に戻りたい、コロナ禍で聞こえてくる声である。何事もなく、つつがなく、暮らせる日常のことであろうと何となく聞いていたが、でも普通って、あたりまえということではないと思う。僕たちはもうすでに、出来事に遭遇し、後戻りすることはできない、なかったことにすることもできない。半藤一利さんは「日本人は、いやなことを見ないで、ないことにしてしまう。熱狂しやすい」といっていた。昨日まで普通だったことが、今日は普通ではなくなり、それまで前提にしていた日常も、変わってしまう。毎日が常に変化しながら動いている、それが常態である。
 若い頃、年寄りじみているが、一生何事もなく暮らして終わりたいと、漠然と思っていた。でもそのうち、いかに平凡に生きることが難しいか知るようになった。今でも表向きは、平凡に見える人たち、無口で、寡黙で、自己表現やパフォーマンス、エンターテーメントとは、ほど遠い決して表舞台には登場せず、一生を終えていく人たちの存在を忘却するわけにはどうしてもできない。世界は、声高で厚顔、非常識、慇懃無礼な世界と平凡な世界とのパラレルワールドで存在しているようだ。
 時間を遡ってみると、僕たちが生きてきた時代は、全人類の歴史の中で生存するための地球環境としては奇跡的に平穏で恵まれた時期だったように思われる。資本主義が謳歌できた時代。経済成長という幻想をもちえた時代。株式会社という得体のしれないものが跋扈していた時代。それを可能ならしめたのは、奇跡的な僕たちの時代であったのだろう。学んだばかりだが、社会は、下部構造(経済)ではなく@マルクス、家族、親族構造である@エマニュエル・トッドに倣っていえば、すべての根底には、地球上の環境がかかわっている。戦争したり、略奪したり、恫喝したり・・・そんな暇はないはずである。いささか屈折しているが、それぞれの国々が、中学生のガキ宜しく、強がっている姿に似ている。家に帰れば飯にありつけ、お風呂に入り、暖かい布団で寝られ、朝になれば枕元には洗濯された、下着や靴下がおいてある。そろそろ大人になろうよ、といいたくなる。それ以上何の過不足があるのだろうか。
 地球温暖化は、哲学・思想・文学・経済・科学・医療・教育・・・全領域の存在が問われている。いわば、船が沈みかけているときに、構造改革だの、経済成長だのと御託をいい合っているが(COPはそんな風に見える)、そんなことより今死にかけている人を救うのが最優先されるべきことだろう。人類が積み上げてきた営為とは、人間が、生き延びる(生存)ためのものである。地球が滅亡してしまったら、そんなものは不要で何の役立にたたない、それこそただのゴミである。
 もしかしたら、地球にとっては、人類こそが不要な存在なのかもしれないなどと思ったりするが、自虐的なことは、なるべく控えよう。

 日本に思想があるかどうか、わからないが、自然対人間の関係、人間対人間の関係、男性対女性の関係などは、だいぶ西洋と日本では、違いがあるように思う。子供の頃、漠然と思っていた自然や人間など年齢を増すにつれ結構考えが揺れ動き現在に至る。特に建築に携わり、それらを自覚的に扱う中で身につけたものである。僕の中では、建築も文学も、音楽も絵画もつながり、その基底をなすのが自然であり、人間であり関係性である。
 多くの環境問題は、外的な要因のテクニカルな話が多い。しかし果たしてそうだろうか。実はそのような外的要因を生みだしている根本は人間の自然に対する関係であり、人間に対する関係の仕方である。素人の域をでないが、おそらく行きつく先は、人間の病識であり、幻想性だろうと思う。

 今日の毎日新聞に「仲畑流万能川柳30周年」という記事が載っていた。その中の数点を、ご紹介しておきます。

殺し合わなくともみな死ぬもの   アオシス 2005年間大賞
明日よりも天気気になる100年後 東京生まれ2007年間大賞
危ないのは地球ではなく人類だ  寿々姫 2008年間大賞
人類のあとにも残る虫の声     安川修司 2010年間大賞
核持って絶滅危惧種仲間入り   中林照明 2019年間大賞


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