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演劇論と建築論

 二十歳頃だと思うが建築ついて演劇や文学などを参考に試行を繰り返していたことがあります。なぜ演劇などであったのか根拠があってのことではなく、ほとんど直感的に近いものでした、試行を続け、たどり着いたのは、簡単にいってしまえば、空間は人間がその場に関与(関係)することで空間は生まれ(生成)、人間がその場から立ち去ると空間は同時に消滅するということでした。読者や観客がいなければ文学も演劇も建築も成立せず先験的に空間は存在しないということです。
 なんか、当たり前で大騒ぎするほどのアイデアではありませんでしたが、それ以降の物事へ取り組む姿勢や指針にはなったように思います。当時は学生運動が盛んで学校で学ぶとことが、いささか疑問に感じだしていた時(転部も考えた)であり、つたない学生でなんの知識も情報も身につけていませんでしたが、ひとり無謀に泥御縄式で試行を始めたように思います。ほとんどのアイデアは、自分独自のアイデアであると妄想しましたが、周りを見渡すとすでに先人たちが成し遂げたアイデアであり、その事実(単に知識と情報不足)に少しがっかりしましたが、物事へ取り組む勇気がようやく持てたように思います。
 その後、その時々に書き留めたノートです。
 
反オブジェクト 隈研吾
接続すること日向邸
タウトは、(…)建築とはオブジェクトではなく関係性であるという考え方を、彼は持っていた。
 
タウトの桂論の鍵となっている言葉は、「関係性」という言葉である。(…)意識と物質とをともに最小のオブジェクトへと還元した上で、それらをマーケティングという統計学によって接続するのが、二十世紀流の接続方法であった。(…)彼は開けっ放しのあまりにも開放的日本の建築における「不在」に対して、しばしば驚きの言葉をあげる。(…)関係性の網の目もまた、不在と酷似している。しかし、そこに生身の身体が投入された途端に、この網の目は突然始動し、空気が一変するのである。主役はあくまでも身体である。(…)物質と意識は、空間的に接合されているだけではなく、時間的に接合されている事を発見する。
 
小池昌代
 作品は言葉でつくられるものだが、イメージは、言葉でない領域の空気を吸って膨らむ。作品の地下深く流れる豊かな無意識を、読者は言葉を通して、それぞれにくみ上げる。
 
ウェブ日記とカラオケ 内田樹
 日常を劇化する力を生み出すものは、読者の存在だということになります。言いかえると、読者を媒介としてはじめて日常の劇化作用が実現するわけです。もちろん非公開日記の場合も、自分という読者は想定されています。しかし、自分という読者には日常を劇化させるほどの力はない。これは小説の場合も同じでしょう。小説に書かれているものは、実際には文字あるいは文章というただの「物質」にすぎませんが、それを小説として実在化させるのは読者です。読者の存在が小説を小説たらしめるのです。
 
考える身体 三浦雅士
 建築にしてもそうだ。いや、建築こそ、あたかも舞踊のように体験されなければならないものの最たるものである。建築は人間の全存在にじかに働きかける。人は、宮殿に入ってその壮麗に圧され、寺院に入ってその厳粛に打たれる。まさに事件として体験されるのである。圧されるのも打たれるのも視覚でもなければ聴覚でもない。全存在である。建築を体験するとはそういうことであって、舞踊に等しい。すなわち建築もまたひとつの身体芸術なのである。(中略)舞台は観客なしに成立しないのである。観客こそが舞台を可能にするのだ。文学も絵画も、いや音楽でさえも、いまでは密室で体験されうるが、舞踊は違う。(中略)事実、事件としての絵画、出来事としての音楽を追求する動きは、いまやいたるところに顕著である。

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