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Biblia studere LⅠⅠ, Luc8:40-48、平安に

iPad+各種生成AIを用いて聖書研究に取り組んでいます。そのお裾分けを記事にしています。

今回は、ゲラサ人の地方から戻ってきたイエスとその一行は病に苦しむ二人の女性に向き合います。今回はその話の前半からのお裾分けです。お付き合い下さい。

イエスが帰って来られると、

群衆は喜んで迎えました。人々は皆、イエスを待っていたからでした。ヤイロもその一人でした、長文ですかテキストをご紹介します。

   イエスが帰って来られると、群衆は喜んで迎えた。人々は皆、イエスを待っていたからである。 そこへ、ヤイロという人が来た。この人は会堂長であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来てくださるようにと願った。 十二歳ぐらいの一人娘がいたが、死にかけていたのである。 イエスがそこに行かれる途中、群衆が周りに押し寄せて来た。 ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。 この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった。 イエスは、「わたしに触れたのはだれか」と言われた。人々は皆、自分ではないと答えたので、ペトロが、「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです」と言った。 しかし、イエスは、「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と言われた。 女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した。 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」
  イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。」 イエスは、これを聞いて会堂長に言われた。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」 イエスはその家に着くと、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、それに娘の父母のほかには、だれも一緒に入ることをお許しにならなかった。 人々は皆、娘のために泣き悲しんでいた。そこで、イエスは言われた。「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。」 人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。 イエスは娘の手を取り、「娘よ、起きなさい」と呼びかけられた。 すると娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった。イエスは、娘に食べ物を与えるように指図をされた。 娘の両親は非常に驚いた。イエスは、この出来事をだれにも話さないようにとお命じになった。
                                 ‭‭ルカによる福音書‬ ‭8‬:‭40‬-‭56‬ 新共同訳‬

お読みくださったように、病気を癒す二つの奇跡物語が一つに結ばれています。一方がサンドイッチのように他方をはさんでいます。


イエスが群衆に出迎えられていることが描かれています。人々は待ち望んでいたのです。そこに会堂管理者ヤイロが、娘の命を救うようにイエスに願い出ます。ヤイロの娘は12歳で、死にかけていたのです。
B
ヤイロの家へと向かう途中のこと、出血病の女性の話が登場します。この女性は12年間病気に苦しんでいましたが、イエスに触れることで病が癒されるのです。イエスは、この女性の信仰を讃えられました。
A
そして再びヤイロの娘の話に戻ります。イエスが娘を蘇らせられたことが書かれています。

今回取り上げるのは B です。

会堂長の家に向かう途中で

文字通りには「12年の間、血の流れの中にいる女性」です。慢性的な出血の病気を患っていました。

このような病は、ユダヤ教の律法では"不浄"とみなされ、社会から遠ざけられる対象となっていました。
しかも、財産をすべて使い果たしても「だれからも治してもらえない」のでした。

「治療する」はθεραπεύω(セラペウオー)

「治療する」「治す」と訳される古代のギリシャ語はθεραπεύω(セラペウオー)です。「世話をする」とも訳されます。Claude3の説明をご紹介します。

θεραπεύω(セラペウォー)について詳しく説明します。

θεραπεύωは古代ギリシア語の動詞で、以下の2つの意味があります。
1. 世話をする、看護する
2. 治療する、癒す
この語源は、「θεραπεύω < θεράπων(セラポン) = 付き人、世話役」と考えられています。つまり本来は「世話をすること」が原義だったようです。

しかし、新約聖書の中では主に「治療する」「癒す」の意味で使われており、イエスが行った奇跡的な病人癒しを指すのによく用いられています(マタイ4:23、9:35、マルコ1:34など)。
一方で、「世話をする」といった原義の用例も幾つか見受けられます(マタイ8:7、ルカ7:3など)。

このθεραπεύωから、現代の以下のような言葉が派生しています。
・療法(therapy) - 治療法
・セラピスト(therapist) - 治療者
・セラピー(therapy) - 治療
・therapeautic - 治療の、療法の
特に「セラピー」は、医学のみならず、心理療法なども指すようになり、広い意味で「世話」の意味合いを持つようになりました。

このように、当初の「世話」から「治療」の意味へと用法が変遷してきたこの語は、キリスト教的病人救済の理念を色濃く体現する言葉と言えるでしょう。

かの女性にはまともに世話をしてくれる人がいたかったのです。

ところが最後の望みをかけてイエスに触れようと群衆の中を進み、イエスの服の房に触れました。

衣の房

文字と通りには「衣のふちκρασπέδου τοῦ  ἱματίου(クラスペドゥ  トゥ  ヒマティウ)」です。


当時のユダヤ人の習慣として、衣の四隅にはヒスタと呼ばれる房がついていました(民数記15:38参照)。これは律法を常に心に留めるための象徴的な装飾でした。

ですので、この出血の女性がイエスの衣のふち、つまりこの房に触れたということには、大きな意味がありました。律法的に「不浄」とされた彼女が、このようにイエスに触れられたことは、旧い規範から解放されたことを象徴する出来事だったのです。

すると出血がとまり癒されたのでした。

イエスは「わたしに触れたのはだれか」と言われた

しかし、人々は皆、自分ではないと答え、ペトロは「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです」と止めました。

「押し合っている」とは群衆がイエスを取り囲み、イエスを押しつぶすような状態であることを伝えています。

イエスもそのような状況であることはりかいしていたことでしょう。しかし「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と言って、自分に触れた人を見つけ出そうとするのでした。

女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話しました。

安心して行きなさい

イエスは「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」と伝えてています。

「安心して」とは「平安に」ですが、「平安へと」とも訳すことができます。平安の中に、癒されて行くようにということでしょう。

ここまでです。お付き合いくださり有り難うございました。
















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