![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/122829648/rectangle_large_type_2_948da529e941b5dab5d982ca5adfe3b1.png?width=800)
Biblia studereルカ福音書ⅹⅹⅴⅰ、安息日に麦畑を
iPad+ChatGPT (他の生成AIも)を用いて聖書研究に取り組んでいます。そのお裾分けを記事にしています。
今回は安息日に麦畑を行く(歩む)イエスと、穂を摘んで食べる弟子たちをめぐる物語からのお裾分けです。お付き合いください。
安息日に麦畑を歩くイエス、と弟子たち
テキストをご紹介します。
「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた。 ファリサイ派のある人々が、「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と言った。 イエスはお答えになった。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。 神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか。」 そして、彼らに言われた。「人の子は安息日の主である。」」
ルカによる福音書 6:1-5 新共同訳
お読みくださったように短い物語です。けれども、一筋縄ではいきません。旧約聖書を背景とする象徴的な言葉が散りばめられているからです。
また、この物語を通してイエスは安息日の定めをただ単に無効としていると断じ、イエスは戒律(法)から人間を解放すると解釈するのは軽薄です。そうではなくて、安息日の祝福への招きを更新するのです。
少しずつ読み進めてまいりましょう。
物語は休日のピクニックを思わせるような穏やかでのどかな光景から始まります。
ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた。
ルカによる福音書 6:1 新共同訳
麦穂が実って収穫する季節、労働の日々から離れて神の安息を祝い憩う日のことです。
「麦畑」とは文字通りには「種蒔く畑」、そこに蒔かれた種か成長して「穂」を実らせていました。大麦であれば4月ごろ、小麦の場合は5月末から6月にかけてです。
ChatGPTに「穂」について説明してもらいましょう。
これらの例は、「στάχυας」が単なる農業用語を超え、豊かさ、神の恵み、霊的な成長など、より深い宗教的、象徴的な意味を持つことを示しています。新約聖書の文脈では、これらの象徴的な意味合いがしばしば強調され、イエスの教えやその時代の人々の信仰生活を理解する上で重要な要素となっています。
とありましたね。「穂」はここでも神の恵みのメタファーのように思われます。そして、蒔かれた種が成長して実った穂が賜物として弟子たちに供されたのでした。
一方、「安息日」も、創世記の最初に書かれているのですか、創造の働きをなし終えた神が安堵し休息したことにちなむ日です。それは週の最後の日(通常は金曜日の夕方から土曜日の夕方まで)に守られ、神との契約を思い、神の恵みによる平和と休息を喜び祝います。
なぜ、安息日にしてはならないことを?
イエスは安息日に麦畑を歩き、弟子たちは穂を摘み、食したのでした。すると、ファリサイ派のある人々が問いただします。
ファリサイ派のある人々が、「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と言った。
ルカによる福音書 6:2 新共同訳
安息日を祝うための規則(禁止事項)があったようです。弟子たちの振る舞いがそれに抵触していると言うのです。ChatGPTに説明してもらいましよう。
穂を摘み(収穫)、手で揉む(脱穀)と言う行為が安息日に禁じられている労働にあたるのですね。
イエスは安息への招きを更新する
イエスは答えてお話になりました。
イエスはお答えになった。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。 神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか。」 そして、彼らに言われた。「人の子は安息日の主である。」
ルカによる福音書 6:3-5 新共同訳
旧約聖書に記されている古事が引き合いに出されています。この古事は安息日の祭儀に関わることで、ダビデ王にまつわる物語です。
神に献げられたパンが祭司の手を通して安息日にダビデの供たちに提供されたことを伝えています。
その古事を含むダビデの物語をChatGPTに紹介してもらいましょう。
この古事に登場するダビデや祭司と同様な、いやそれ以上の務めをイエスは担っており、弟子たちには麦穂が供されているのだと言うことをイエスの言葉は告げています。
ファリサイ派の人たちがこれで納得したかどうかは分かりません。納得はしなかったでしょう。
しかし、少なくとも弟子たちが破ったと非難されている規則が安息日の祝福へと誘うためのものであり、人を裁くためのものではないことは認めたのではないかと思います。
それで、最後のイエスの言葉となります。それはイエスが安息への招きを更新する者(主である)ことを告げています。
「人の子は安息日の主である。」
そして、彼らに言われた。「人の子は安息日の主である。」
ルカによる福音書 6:5 新共同訳
ここで再びイエスは自分を「人の子」と呼んでいます。その意味をChatGPTに説明してもらいましよう。
今回はここまでです。お付き合いくださり有難うございました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?