見出し画像

原石鼎を研究する 初読篇⑤

晴天の枝に鳥来る雪解かな
 空間の把握、時間の把握がおもしろいと思う。晴天も鳥も雪解もそれに当てはまる。

濁水にかゞやく日ある雪解かな
 枯草にかゞやく日ある雪解かな と改作?されている。前者は、水・雪の連関が強いが、後者はそこからは一歩抜け出している。

春猫の草より塀へ上りけり
 中七が好き。警戒心強そう。

昼ながら月かゝりゐる焼野かな
 これも空間把握が面白かった。視野自体は常に広く保たれている。
 
花の戸の奥に行き交ふ燕かな
 燕の姿は、影のように描かれている気がした。

木の芽より草に下りたる鴉かな
 春猫の句と対照的。

枯蔭にかくれて赤き椿かな
 発見の喜ばしさが全面に出ている句。

遅月のほの/"\として桜かな
 ここらへんで、石鼎のやり口? がちょっとわかってきた気がした。この景を見ている人の立ち位置、視界の範囲は常に一定である。見ているものが句のなかで二つ以上あって、ピントの合わせ方がそれぞれちがう。このとき、桜はあるのだけど、見ないようにしているというか、排除された状態にある。月に夢中なのである。その集中がふと途切れたときに桜が姿を現すのである。だから、石鼎の句にはものすごい時間の経過を必要としている気がする。おもしろいのが、月も桜も、近いものではないということ。写生なのは写生なんだけど、その視線の向け方に情緒があると思う。
 
銭湯を出し人に立つ春の鹿
 ちょっと俗っぽくて面白い句。

菜の花に沈む蝶あり道坦々
 沈む、がいいなあ。

青天の蔓にわかれし蝶々かな
 蔓もわかれているような気がした。

日にとんで翼うれしき雀の子
 燕の子まさか自分が飛べるとは 後藤麻衣子 を思い出した。

山風に岩あらはるゝ木の芽かな
 風で見えてくる岩があることがおもしろいし、木の芽も本来のいきいきした感じ以上に揺さぶられているようでおもしろい。

朧夜の色つくり居る薊かな
 こういう句も詠むんだ、という印象。朧夜の色。

春惜む心に暗し牡丹の絵
 めっちゃ好き。心に暗し!!!!!!! 

(さる人に返すべき状一つ、切手はりしまゝに控へ置く)
二月の文庫に秘めて情かろし
 前書きあっての句。

ものゝ根のなほいぶりゐる焼野かな
 一物。

白梅に日の当りたる焼野かな
 近景、遠景。

鶯に春の流れの日もすがら
 春の流れというおおまかな把握。

蘆の芽や雪かがやかに峰二つ
 このが、は、がの表記だった。

梅が枝にきらめく星や宵のほど
 きらめくが安易でない。や切れの思い切りのよさ。

校鈴に庭しづまるや百千鳥
 取り合わせ。百千鳥も、静まっている。

春浅き国学院の句会かな
 こういうのもいい。

銀杏大樹の芽をかけりたる雀かな
 石鼎って銀杏のこと好きなのかなあ。

屋根屋根を蝶々わたる木の芽かな
 たぶん蝶もめっちゃ好きなんやろなあ。

うらゝかや蜘蛛の糸と光るたこの糸
 光るが軽やか。

石鹸玉あがらず袖にあたりけり
 めっちゃ好き。

野遊の水辺にひくき蝶々かな
 シームレスだなあ。

門前の土に薔薇散りしとばかりの記憶にて
 こういう句がときどきあるのも面白い。どうした???? ってなる。

どの幹にも流るゝ雨や蝸牛
 蝸牛がいい。

巨木の下に道一すぢや夏の露
 当たり前なんだけど新しい気がする。

紫陽花の古木について蝶白し
 白という色の発現。

日やけ百姓はちまきとつてもどりけり
 こういう句よ。日やけが大事。はちまきのかたちに焼けているのだ。

秋燕の目に恐ろしき曼珠沙華 
 妙に惹かれる句。秋燕/の目 となんとなく切ってもよいのだけど、やはりここは 秋燕の目 として読むべき。目に/恐ろしき と切ってもいいけど、これも 目に恐ろしき で読みたいところ。

秋風や牛現はれし崖の上
 石鼎句における秋風はトリガーだと思う。この辺もより考えていきたいところ。

鹿動けば秋日も動く静かかな
 動く/静かかな

秋雨や紫苑傾く水の上
 onじゃなくてabove

雨雲に正しくのびて早稲穂かな
 正しさと雨雲の対比。

大空の下に青々と冬木哉
 でかい句。好きだ。

大根今悉くなき畑かな
 そのまんまで、ぽっかりと畑がひろがっている。

闇汁の葱かくしもつマントかな
 かわいい。