人には人の駄サイクル

駄サイクルという言葉がある。もはや死語かもしれない。
駄サイクルという言葉についてはググってもらうとして、この言葉は悪用しようと思えばいくらでも出来る。
人を叩く言葉として丁度いい。

駄サイクルは一概に悪いものではないという話は、当初から出ていた。
ただ、当時の私には信じられなかった。
何かをやるのは、上を目指す為であって内輪で喜ぶ為ではない。
内輪で褒めあって満足するのは軟弱で、上を目指すのが人間のあるべき姿だと思っていたからだ。
実際は完全に真逆で、上を目指すのが人間のあるべき姿!とか言ってると、完全に気が狂った人の扱いをされる。
ただ、当時の私は狂っていたから、上を目指さないものの典型として駄サイクルを捉えていた。
全ての人生は上を目指すべきで、駄サイクルは上を目指していないから、全ての人生にとって必要がないものだと思っていた。

実際は世の中って大きな駄サイクルがあって、その中に小さな駄サイクルが細分化されている構造になっている。
世間という大きな駄サイクルの中をぐるぐる回っているだけで、世間の駄サイクルに乗らないものは、もっと小さな駄サイクルに乗るだけに過ぎない。
人間は何かの駄サイクルに入っていて、その中で生きているから、駄サイクルは必要ないどころか、人間の生きる拠り所ですらある。
それはもう、人間が社会的動物だからそうなっている。

内輪の中で堂々巡りしても何も生み出さないように見えるけど、我々は何も生み出してはいない。
全て地球からもらったものであるし、もっといえば太陽からもらったものでもある。
どんなに世界的スターだって、知らない人は知らないものだ。
単に内輪の規模が大きいか小さいかの話。

だから、人の行動が一見「駄サイクルだ!」みたいなことを感じることはあり得るけど、人には人の駄サイクルがあって、それに対して排除するのではなくて寛容になると言うのはとても大事な話だと思う。
何故なら、他人から見れば自分の行動も駄サイクルに見えるのは、それもまた間違いない話だからだ。

そもそも、駄サイクルって多分こんなに拡大解釈していい言葉ではない。
あくまでも身内で回しているだけなのに、それが世間に通用すると思い込んでいる状態にのみ使っていい言葉で、要は少しオシャレにバカにしているだけ。
「駄」という言葉がそもそもバカにしているし。

でも、駄サイクルを脱却したいという欲望自体は、自分に向かっての感情とするという条件をつけるならば存在してもいいものだとは思う。
方向性を間違えなければ、それは野心となり、何かを成し遂げる原動力になる可能性はある。
そういう向こう見ずな荒々しい気持ちは人の世から見れば狂っているけれど、とても愛おしくも思う。

ここで一曲。

堀江由衣 with UNSCANDAL - スクランブル

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