物事を受容する倉庫

最近思っていることを書いてみます。
今読んでいる「暇と退屈の倫理学」にヒントが書いてありそうだけど、まだ全然読めていない。


物事の受容には専用の倉庫のようなものがあると思っている。
倉庫に物を入れていくと、満杯になってきて、最後には何も入らなくなる。
同じように、物事にも受容出来る量には限界があり、満杯になると入らなくなる。
この倉庫は人間の気質と生育環境で決まる。ある程度の年齢がいってからは、大きくすることは出来ない。

この倉庫には子どもの頃は色んなものが入るけど、大人になるにつれてスペースが無くなってくる。
大人になっても、スペースは増えないから、新しい概念を倉庫に入れたいなら、整理しないと、受けいれられなくなる。

例えば、言語だと文法というルールを使って学んだりするけど、あれってネイティブスピーカーには必要ないプロセスで、限りあるスペースに別の言語を入れる技術なんだと思う。

これがモノの整理なら捨てることも出来るんだけど、この倉庫に入っているものは捨てることが出来ない。
一度倉庫に入ったものを端っこに置いておくことぐらいは出来るけど、結局倉庫には入ったままだ。
どんなに必要ないと思っている物でも、倉庫の中にある物は絶対に無くならない。
それが例え嫌な物だったり、自分では使いたくない物でも、使わざるを得ないことがある。

結局自分というものは、この倉庫の中に入ってるものと等価だと思う。
その人が何をして、何を経験して、どう考えたのか。
そういうものが、大人になるにつれて、蓄積されなくなっていくような気がする。

たまにこの倉庫が異常に大きい人間をインターネットで発見することがあるんだけど、そういう人は本当にすごい。
蓄積している経験量もさることながら、それを日常的にアップデートしていくことが出来る人間が存在する。
何よりそういう人間は、学ぶのをやめない。
まだまだ倉庫に空きがあると分かっているから。

そういう人間は子供っぽく見える。
何かを新鮮に学ぶ人って、何故か子供っぽく見えるものだ。
でも、それはとても貴重な才能で、そういう才能が自分に無いのはもう分かりきっていて、だから、そういう才能がある人を羨ましいなあと思う。

これが分かったところで、自分が出来るのは、倉庫にあるものの整理だけ。
もう握っている武器は変わらなくて、あとはその武器を磨くなり折るなり、何でもいいけど、とにかく新しい物事が自分の中に入り込むことってないんだと思う。

そうやって古いモノにまみれて、死ぬんだろうな。

ここで一曲。

米津玄師 - さよーならまたいつか!

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