謝罪について考えてみた
思えば、幼い頃から人生に謝罪はつきもので、ドラマで見れば楽しいし、受けるとそれはそれでどうすればいいのか分からなくなる。
謝れ!と言われたら謝るし、悪くなくても謝るし、そもそも生きてること自体に謝りたいし。
そんな謝罪について何か読み物がないかなと思って調べていたら、一つ見つけた。
「人はなぜ謝罪するのか」というタイトルの論文だ。
この論文によれば、謝罪とは償うという側面があるが、それ以上に加害者と被害者の間での関係性をよりよくするものであるという。
かなり真に迫っているように感じた。
謝罪により、加害者は罪を赦され、被害者は過去からの解放に寄与出来る可能性があるということのようだ。
もちろん被害者が謝罪を受けるかどうかというのはもちろんあるにしても、結果的に謝罪というのは、起こってしまった事に対してお互いに良い結果へ導く可能性があるということを示している。
謝罪は相手がいて、そこに対して働きかける行為であるというところは、間違いがなさそうだ。
もし謝罪の概念を考えるときに、相手の概念が全くない考察をしたのだとしたら、それはとてつもなく間違っているはずだ。
辞書的な意味でも、謝罪とは許しを乞う行為なので。
相手がいなければ許されることは出来ない。
ただ、この論文をそのまま解釈すると、謝罪を要求する人の意味は分からなくなるし、日本人的なカジュアルな謝罪もよく分からなくなる。
私の考えだと、相手に非を認めさせることを、自分が上に立つ事だと認識している人間はこの世に存在している。
これが人種によって何かとかは、良くわからない。
謝罪しない人には責任の受容が欠けているという指摘があるが、これを拡大解釈すると、謝罪を求める人は相手に責任の受容を求めているという事になる。
つまり、相手に元々なかった責任を認識させ、受容させる行為という事になる。
こんな行為をされて素直に謝る人間はいないと思いきや、実際には割といる。
私なんかそうだ。自分の責任だって思ってしまう。
そして、相手の思う「上」とやらに立たれる。
日本人は責任の受容からの謝罪までの流れはいいとして、大して許してもらう意志が無くても謝罪はする傾向にあると思う。
日本人は主語が大きすぎたので、「私」とする。
私は自分に責任があると感じた時点で謝罪をするけど、それは全く許されるとは思っていない。
許されるという期待をしていないけど、祈ってはいる。
許されようと思ってないから、社会という目に見えない物に対して謝罪しようという考えが出てくる。
どちらかというと自分を下に置くことで相手を立てる、謙譲語のような使い方をしていることだ。
そうか、日本人の謝罪って謙譲語と同じ概念だったのか。
そりゃ外国では理解されないワケだわ。
勝手に自分の中で納得したので、この記事は終わります。
ここで一曲。
レキシ - 幸福論
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